映画と笑いの今昔物語

日本映画に関係した人たちの、 名前の変遷なら私が一番知っている

 
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永田哲朗
昭和6年生まれ、北海道釧路出身。
昭和30年早大法学部卒、双葉社を経て、45年出版ビジネス、50年永田社設立。
月刊誌「旅と酒」「熱血小説」「○秘桃源郷」「おとこの読本」「焼酎」「実話MUSASHI」書籍「経絡の原典「現代ビジネストレンド」等発行。著書「殺陣―チャンバラ映画史」「日本映画人改名別称事典」共著「右翼民族派事典」「全学連各派」「時代小説のヒーローたち」など多数。
チャンバリストクラブ創立者。

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2012年09月24日(月曜日)更新

ムカつく世相に怒りの一言

第6号 新聞業界に物申す

「新聞休刊日」というのは一体何だろうか。われわれ酒飲みに“休肝日”が必要なのはわかるが、新聞が大きな顔をして休むなんてトンデモナイ話ではないか。それでよくメディアの王などとホザいていられるものだ。
 新聞は休んでもテレビは休まない。この差をどうする。新聞は一ヶ月何千円を払わなければならないが、テレビはタダだ。
 空白の一日・・新聞はその分だけでもテレビに劣っているといわざるを得ない。
 私は思うところがあって、今年のはじめに大新聞をやめた。そして三ヶ月ばかし新聞なしで通した。大体私は活字人間である。新聞なしでは過せないはずだった。テレビは早朝ニュースとみのもんただとか、あそこら辺より見ない。用があるのは放映される映画を録るくらいのものだ。
 その私が新聞なしで三ヶ月経っての結論は、「ナーンだ、新聞なんてなきゃなくてもいいんだ」ということだった。
 朝起きて新聞の一面から大きなものを拾う、社会面、スポーツ、芸能面までサラサラと読み、広告面の出版ものを見るというのが、日課だったのだが、そんなものどうでもいいやと思ったらホント、どうでもよくなっちまった。週刊誌は新潮、文春を購入しているから、突っ込んだことはこれでコト足りる。
 その後大新聞よりもマシで安い東京新聞をとりはじめた。なんとなく口さみしい感じがするのと、出版物の広告がある程度載っているからだが、やたらとボリュームがあってぼう大なチラシ広告でゴミばかりの増える大新聞よりは、はるかに内容もキリッとしていていい。ただし“休刊”についての異議は同じだ。
 なんで新聞を休むのか。これに対する回答は「新聞労働者の健康維持のため」ということである。そんなことは購読者に関係ないじゃん。新聞社サイドで考えればいいことじゃんというのが、こちらのいい分だが、そうにはいかない。
“新聞社の”じゃなくて“新聞配達人のための”が実際の理由なのだ。
 ご存知のように、日本の新聞は新聞配達制度によって成り立っている。新聞社は新聞の広告料によって賄われていて、新聞料金そのものは配達業者のところに行く。それが新聞配達員に給料として支給されるという仕組みである。だから新聞従業員を休ませなければならない。
 つまり新聞は究極のところ人力に頼っているわけだ。人間サマの足が止まればジ・エンドつーわけ。二十一世紀の今日、メディアの帝王とイバっている新聞の、これが実体なのだ。新聞配達がストをやれば、休刊日でなくたって新聞は届きませんよ。そんなことのないように業者はシバリをかけているけれども、業者にケツをまくられたら、これはどうにもなるまい。
 こんなぜい弱な基盤に立っている文化産業なのだ。
 私は三十代後半頃、元サンケイ鹿内信隆社長の話を聞いたことがある。まだフジ・サンケイグループになる前だから、ずいぶん古い話である。
 新聞配達制度はいずれ行き詰る。各社が盛り場とか駅前にポストを持って無料で新聞を持って行かせるようにすればいい。いまのフリーペーパーのことだ。各新聞の個性とか報道のスピードが競われ、大衆が勝手に好きなものを選んで読む。これが理想的なあり方だ。大要こんな内容だったと思う。
 あまりの大胆な話なので驚いたものだが、業界はもちろんこぞってこの意見をツブしたに違いない。鹿内氏は純然たる新聞人じゃなく経済界から迎えられた人だけに、旧態依然たる新聞業界を見てそう考えられたのだろう。これが公表されたら大騒ぎになるだろうが、彼の意見として一部の者が聞いただけだったと思う。
 四十数年前にこういう意見を持った人物が現れたにもかかわらず、その後なんの変化も進歩もない。これは大新聞同士の一種の企業合同(トラスト)ではないか。新聞は産業界のトラストを公正取引委員会と一緒になって騒ぎ立てるが、テメエのところは業界の利益を守るために一致団結する。
 みんなナアナアで適当になれ合い、どれを読んでも五十歩百歩。政治にしろ外交にしろ経済にしろ飛び抜けた提案も主張もしない。業界のヤバネタはみんなでソッと触れないでほおっかぶりする。それはカミの上のことで、裏じゃスゴい工作が行なわれているらしい。互いに借りたり貸したりして帳尻を合わせているのだ。
 これだから戦時中の「大本営発表」と変らないじゃないかとバカにされるわけだ。お仕着せの情報をちょっと手を加えて流すだけの新聞に主体性を求めても無理だろうが、もう少し購読者すなわち大衆のサイドに立ってモノをいってもらいたい。
 一時期いろいろな形のフリーペーパーが出回り、情報社会を一変するかの勢いだったが、不況と共にもろくも消えてしまった。
 しかし、パソコンやネットの異常ともいえる発達で、新聞はもう過去のものという認識が定着しつつあるとき、新聞の生き残りは大衆が信頼できるジャーナリズムの本質を取り戻す以外にはない。
 一つ異端児が出現して新聞トラストが崩壊すれば、それぞれが牙を向き合ってキャラクターを競うことになるだろう。
 それを期待するのみだ。
 

2011年09月20日(火曜日)更新

ムカつく世相に怒りの一言

第5号 

 われわれは乗り物などに乗った場合、お年寄りや子供連れの婦人方に進んで席を空けたものである。誰もが当然のこととしていたから、別段カッコづけでも何でもなかった。
 いまは電車の中にシニア専用席があるが、そんなもの全く無視してドカドカと若い人たちが占領している。
 近ごろは交通機関が発達して乗車時間が短くなった。中学生、高校生など、ほとんどが30分も乗らないですむんじゃないか。それなのに中学、高校生たちは我れ先にと席をとるから、動作がのろくなっている年寄りや、杖を用いている人などは弾きとばされそうになってしまう。
 20分や30分立っていたって知れている。吊り革にブラ下がって文庫を読むなりケータイをいじくってりゃアッという間だ。
 それを僅かの時間でも座ろうというのだから情けない。いたずらにモヤシみたいに背だけ伸びたヘナチョコ野郎がふえるのも無理ない話しだ。
 こういうのは家庭のしつけでどうにでもなることだ。電車に乗ったらお年寄りに席を譲るようにしなさいと教えればすむ。共稼ぎでそんな子供にいい聞かせるヒマがないといわれりゃそれまでだが・・。
 学校ではどうだ、昔は「修身」なんて課目があって、礼節とか一般的な社会常識を教えたが、いまはそのようなものはない。教師も通勤の途次、いつも目撃しているわけだから、さりげなく社会人になるための常識として教えるくらいのことがあっても良さそうに思うのだが、面倒くさいのかそういうことはしない。いや、その教師自体が目の色変えて座席争いに加わっていたりして。こりゃ話にならんわい。
 マイカーで通う人が多いから、電車の中の生徒の行動など知りませんというのかもしれない。まあ責任逃れというか、一切そういうことには関わらないというのが当世流なのだろう。
 いまさら「修身」のような形で学生を規制しようとは思わないけれども、山ザル軍団みたいな状態で育っていった連中が、そのまま社会人になるのかと思うとゾッとする。
 そういう意味で、教会などである程度社会全体のルールを自然と教えこまれている国は、それなりに秩序が保たれているように見えるがどうだろうか。

 いま、電車の網棚には何も乗っていない。まれに荷物やバックが乗っかっているだけだ。
 あの網棚には週刊誌がよく乗っていた。忘れたのではない、実話週刊誌やエロっぽい雑誌、それとマンガ誌だ。家へ持って帰るとまずいので、網棚にポイと乗っけて行くのだ。
 ところが例の“オウム事件”あたりから、不審物がまぎれるからか、週刊誌など一切棚に置かないようにという“お達し”が出た。
 あの当時はそれくらい“不審物”に神経を使わなければならなかったのだろうが、いま現在、週刊誌を乗っけておくくらいどうということもないんじゃなかろうか。
 というのは、週刊誌類を集めて新宿、池袋等の盛り場で1冊100円ぐらいで売りさばく商売が成り立っていた。つまり二次使用である、これが結構人気があったのだ。
 私など網棚週刊誌、ふだん目にしないものを見つけて喜んで読んでいた口だから、これが一掃されて非常にさびしい思いをした。さりとてわざわざ新宿などに降りて100円ほどで買い求めるのも面倒なので“網棚週刊誌”とは無縁になってしまったのだが、かってのような状態に戻れば、また喜んで“網棚”に親しむだろう。
 JR駅で特に目につくのは、クズ入れの新聞・雑誌等、空きビン・空き缶、その他と三つの穴のあいたのが置かれていて、新聞・雑誌の穴をかき回して週刊誌などを漁っている老人が多いことだ。
 ゴミ箱漁りはバタ屋と同じで、決してカッコイイものではない。しかしなおそうしてまで読む物を求めている人がいるというのは、出版業界に身を置く者として、ナミダが出るほど有難いしウレシい。
 若い人の活字離れがはげしいことは知っている。ケータイなどの驚異的な発達で、活字離れが進んだ。週刊誌などの部数もみなガタ減りしている。従って乗り物で週刊誌を読む人も以前のように多くはない。クズ入れにも大して入っていないだろう。
 だからなおのこと、網棚制限を解除して、週刊誌などのクズ入れ直行が“二次使用者”に渡るようにしてはどうかと提案する次第だ。
 たとえそれが二次使用者の手に渡ってもいいじゃないの。私はどんな雑誌でも、それがクズ入れ、ゴミ箱に直行するのが悲しい。一人でも二人でも多くの人に読んでもらいたい。
 買えないけれども読みたいという人が現実に何人もいるのだから、クズ入れを漁らなくても、ツと網棚から持って行ける状態にしてほしい。
 そのくらいのこと、エエジャナイカ、エジャナイカ。
 

2011年07月11日(月曜日)更新

ムカつく世相に怒りの一言

第4号 

 私はほとんど毎日、JR、地下鉄、バスなどに乗っている。東京都のシニア・パスの恩恵に大いにあずかっているわけだが、いろいろなことが目につく。
 
 まず公衆トイレのことだ。乗り物に乗ってりゃどうしても利用する機会は多い。設備もよくなってきた。かっては横一列に並んで小便をしていたものが、いまはみな個々の便器で用をたすようになっている。立派なトイレである。
 ところがどこへ行っても便器の下が小便で汚れている。幅80cmあるだろう便器の中で用を足せないとは、おヌシそんなにデカいのか?と聞きたくなる。
 便器からタテに汚すのは糖尿病とか前立腺肥大症の人だろう。よく「一歩前進」とか書いてあるが、それより便器の受け口を長くしたらどうだといったことがあるが、サースガTOTOである。一部が受け口を長くした便器を見た。
 問題は左右に散らすヤツだ。男の子で横に振るのが結構多い。しかし各便器の下をあれほど汚すだけの数じゃないと思う。
 要するにこれは確信犯で、素直にトイレを使用するのがイヤなのだろう。そして汚れているのを見ると、こちらも汚してしまえみたいな気持で用を足すんじゃなかろうか。
 公平に見て、JRのトイレは汚れがひどい。地下鉄の場合、比較的キレイに思われる。清掃担当者に悪いけど実態はそうだ。横に振りまいている奴らを見つけたら蹴飛ばしてやりたいくらいだ。
「大」の方はあまり使わないのでよくわからないが、腰掛け式の方はキレイでも旧式の場合は汚れているものが多いようだ。いずれにしても公衆トイレを汚して平気な奴なんてロクなもんじゃない。たとえ10円でも使用料を徴収した方が、幾分ましな使い方をするんじゃないか。いや、金を払ったんだからと大威張りで汚す奴がいるかもしれないが・・・。
 かっては巷の公衆便所は汚いことも汚いが、落書きの巣だった。雄大な巨根を描いたり、丸にナニを描いたりもろもろの欲望を書きつらねてあったり、あれはあれで一つの風物詩だった。同じ汚すのでもまだ可愛いよ。

 二年ほど前のことだが、地下鉄で妙な人に出会った。エスカレーターに乗っていつもの調子でトントン歩いて行ったら、途中で通せんぼしているオッサンがいる。手すりの両方にひじを張っているのだ。
「何してるの?」と聞いたら、「いや、これは一人で乗っているものだ」という。「急ぐ人がいたら歩いてもいいように脇があいているじゃないの」「いや、ダメだ」「バカなまねよしなよ」「バカとは何だ」「あんたのやってることおかしいよ」といい合っているうちに着いて終りだったが、あまり混んでいない時間帯だったからいいようなものの、これが新宿、池袋、渋谷だったら、ダダダッと人が降りてきて、ハジき飛ばされてしまうだろう。
 ヘタにタメ口をきいたりしたら殴られかねない。なんのためにあのような行為をしているのか全く不可解だった。あれがオッサンの自己満足なのかもしれない。その後見かけることはないが、やっぱヘンな老人が誰にも相手にされぬまま、メいっぱい自己主張をしたということか。
 地下鉄に乗って入口に近い角の席に座ってウトウトしていたら、肩を何か固いもので突く奴がいる。ナンだ?と顔を上げたら身体障害者が私にもっと奥の方へ座って、角の席を譲れと手で指図しているのだ。
 ムッとしたがとりあえず席をズラしてその障害者を座らせた。そこで、「あんた席を譲れなら譲れといえばいいじゃないか、その松葉杖で人の肩を押すことないだろう」といった。男は「杖じゃない手で押した」という。あの固さは杖の感触である。ま、それはいいとして、「口でいえばすむだろう、失礼じゃないか。第一、この席の向かい側だって空いているじゃないか」「いや、あっちまで歩けない」車内の席を歩けない奴がよく駅まで歩いてきたものだ。
 私の近くで様子を見ていた客が、「あなた失礼だよ、キチンと話さないで、そういう態度よくない」と助け舟を出してくれた。それでもなおモゴモゴいおうとしているので、「オイ、オレも高貴・・高齢者だからな」といったら、さすがに黙ってしまった。そしてバツが悪いのか次の駅でそそくさと降りた。
 私は身障者の人に親切にすることはいとわない。しかしいかにもオレは身体障害者サマだぞ、みたいな態度で来られるとカチンとくる。
 互いに譲り合ってこそ和が保たれるのだ。元禄時代の“お犬さま”じゃあるまいし、そこのけそこのけ身障者サマが通るじゃ一般人は迷惑するだけだ。
 充分じゃないかもしれないが、身障者には特別なサービスが国からされている。それは特権じゃない、すべての国民の税金でまかなわれているのだ。
 身障者の人の生活も大変だと思うが、それをとりまく人たちも大変だということを知ってもらいたい。
 世間の同情と社会保護に甘えてもたれて、おのれを特別な存在だと思い込んでは困ります。
 われわれは身障者の人たちができるだけ快適に生きられるように気を使っているつもりだ。身障者の方もなるべく他人に迷惑をかけないように謙虚に接するのがオトナの社会の“暗黙のルール”だと思う。
 

2011年05月24日(火曜日)更新

ムカつく世相に怒りの一言

第3号 『制帽・制服のパカ野郎』

 私は「東京都シルバーパス」を愛用している。都営地下鉄、バスなどが無料で乗れるから実に有難い。
 その感謝の念は別として、過日早朝バスに乗ったので寝てしまった。「お客さん終点ですよ」と乗務員にいわれて、ハイ、どうもとバスを降りたのだが、これが終点ではなく、大回りした始発点だった。駅からも少し葉なれている。どうせ起すのなら終点で起してくれりゃいいものを、わざわざ遠い所まで引っぱって来た。
 一体なんの意味があるのだろうか。乗務員のある種の意地悪としか考えようがないではないか。
 いつも思うのだが、バスの始発所には必ず何人かが並んで待っている。多い時はニ、三十人にもなる。厳寒の冬、酷暑の夏、並んで待つのはツライものだ。ご老体もいれば、乳幼児連れの主婦もいる。
 停車しているバスの乗務員に早く中に入れたらどうですかといったら、「規定ですからダメです」という。発車五分前でなければ車内には入れない規定だそうだ。
 何が規定だ、そんなもの自分が責任を持っている以上、自分の裁量でどうにでもなることだろう。少なくとも十分前には客員導入するくらいのサービス心がほしいものである。
 どうも制帽・制服の人たちはお役人と同じで、規定だの規律だの、自分たちだけに都合のいい「きまりごと」をこしらえてこと足れりとする風潮があるようだ。
 バス一輌、何十人かの人の命を預かる責任者だからエライには違いないが、誰よりも客がエライということを念頭に入れてもらいたい。バスはボランテァじゃなく営利事業である、お客様が第一なのだ。制帽・制服で何かエラクなったつもりで客に接するなど、あってはならないことである。
 そういう関係を離れて、寒い時や暑い時、同悲同歓のヒューマニティというやつで、黙ってサービスすれば、乗務員は感謝され、バス会社も好評を得るはずである。
 どこにでもニ、三の態度の悪いのがいて、それが皆に伝播するのだ。バス・ストップで十分も十五分も待たされたのに「途中混雑で遅れてすみません」のひと言もいわない。ずいぶんアタマにくるではないか。
 さらに乗車する時パスを呈示するのだが、それをよく見せろという。シニアパスは使用期間も年齢も決まっている。見てどうするの?何か不正があったの? ンなもの見直したって何が出てくるというんだい。
 前にも「もっとハッキリ見せて」という乗務員がいたので「どこを見ようてんだ」といったら「いや男・女のところまで見る」という。つまり女性名のシニアパスを男性が不正使用している場合があるということらしい。
 万分の一でもそんなことがあったところでどうだというんだ。バアさんのパスでジイさんが使ったと目クジラ立てるようなことかってんだ。
 そんなミクロなことに気を使う必要があるのだろうか。どうもこの人たちには検査だとか検閲とか、ちょっと高見に立って、われわれ市民を取締ってみたいのとちがうか?
 JR・地下鉄などの乗務員、事務員もみな共通している。制帽・制服で一段エラくなったような意識を持っている。
 日本人は昔から官に弱く、官・すなわちお役人のいいなりになって生きてきた。官尊民卑の風潮は民主主義といわれる現代でも、庶民の精神構造の中に残っている。
 制帽・制服はいわば疑似官服である。おまわり、郵便局などにも通じるものだ。われわれ庶民は知らず知らずの間に、官服―制帽・制服の統制に馴らされているのではないか。
 戦前の満州で最下層生活を強いられていた朝鮮ピー(売春婦)が、
「マテツ(満鉄)の金ポタンのパカ野郎」
 毒づいていたのを思い出す。当時の満州の支配者満州鉄道社員に対する悪口雑言である。
 われわれも「制帽・制服のパカ野郎」くらいの気持で、エラッそうにする彼らを冷徹な目で見てやろう。図に乗らせるとこういう手合いはだんだんサデイステイックな気分になって、せいいっぱい威張ろうとするからだ。
 乗務員に「有難う、ご苦労さん」と感謝の気持を持つと同時に、客を客らしく扱わない傲慢な連中には毅然とした態度でのぞむべきである。
 

2011年04月18日(月曜日)更新

ムカつく世相に怒りの一言

第2号 飲んべえのこだわり、「お通し」なんて要らない! 

 私は「酒徒」などと称しているが、要するに酒飲みである。飲んべえである。
 酒飲みというものは本質いやしいものだ。盛っ切りといってハカマにコップの場合、そのハカマから酒がこぼれるほど盛られていないと面白くない、ハカマからあふれた酒を掌に受けてなめるくらいでないと、本当の飲んべえとはいえまい。
 意地汚いとかみっともないとか、そんなことを気にしちゃ酒飲みとはいっちゃいられませんぜ。
 私が一番イヤなのは「お通し」というやつだ。何ですかアレ、前日の残り物を煮つけたようないかがわしいものが大半。
「ゆうべのあまりものだが、よければ食べてよ」と、常連に出すのなら嬉しいが、そのハンパなやつに300円、350円などという値段をつける。
 かっては大衆酒場だってビールを頼めば小皿に塩豆をつけてきた。小料理屋では最初から徳利の横に漬け物か何か小物がついていた。いや、酒を飲ませる店にはたいてい大根の千切りとか、みそとか何かつけていたように思う。
 これは、ほんの気持、ほんのサービスで、別だん出さなければならないものじゃないから、客は、その、ほんの、そういうところに安らぎを覚えたのだと思う。
 私はいまはじめての店に入ると、「あ、お通しは結構。何か別なものを頼みますから」と最初に断る。女の従業員が、「店のキマリですから」といったら、間に合えば「あ、そう、じゃまた」とさっさと帰るし、おしぼりと一緒に出されると、酒一本だけ飲んで帰ることにしている。高い酒につくが仕方がない。
 店のおやじさんとかマスターが「あ、いいですよ」といってくれると安心して腰を落着けるのだ。
 この間、両国に行った時、老舗らしいそば屋に入った。とりあえずもりを注文した。おしぼりとお茶が出、そばを揚げたのがほんのひとつまみ、お茶受けに出てきた。ウレシクなったねえ、早速酒を頼んだ。別にみそが出された。や、これはいい。ソク天ぷらをオーダーした。
 奥から出てきたおやじさんに話しかける。明治時代からやっているお店だそうで、娘さんがいまは仕切っているという。時間的には客は私一人だったが、この一帯の人たちの信頼を得ているから、まあそれほど儲かるとは思われないが、淡々と営業して店を維持していけるのだろう。こういう気分のいい店なら近くに来たら必ず行きたいし、ぜひ永く続けてもらいたい。
 そばもあちこち「名店」といわれる店に入ったが、ちょっと誇らしげな風があったり、値段はやたら高いが、まず、いいそば粉をどのくらいの分量用いているのか、よくわからないが、大したものじゃない店が多い。
 ま、そば屋はおくとして「お通し」だ。もう何年も前だが、私鉄沿線の駅を出てブラリと歩いていたら、「本格焼酎の店」「銘柄豊富」と書き出した店が目に入ったので、これはいいやと立ち寄った。
 ローカル駅でこういうしっかりしたコンセプトの店は珍しかったのだ。三十種ぐらい揃っていた中から、あまり聞いたことのない銘柄のものをとりあえず頼んだ。
 それはいいが、「お通し」が出て驚いた。ナント、小皿にマカロニにマヨネーズをかけたものである。恐れ入って一杯飲んで帰ればいいのだが、さすがにキレた。
「あんたのとこ、焼酎にこんなものが合うと思ってるの?」
「ハア、それをお出ししていますが」
「ま、これでいいという人もいるかもしれないがね、も少し客の立場で考えてよ。ビールならとも角、焼酎だよ。焼酎に合いそうなもの出すのが当り前じゃないの」
「ハア、焼酎用のメニューは用意してありますけど、、」
「そんなことは店を見回して分かってるよ。いっているのはこのお通しのことだよ、こんなもの要らないから何か別なもの出して」
 何か不服そうだったが、私が馬刺しを注文したのでそのまま引っ込んだ。馬刺しでもう一杯別な銘柄の焼酎を飲んで帰ったが、不愉快で酒の味も馬刺しも記憶に残らなかった。
 興味とか嗜好は多元多様化している。だからマカロニで焼酎やったからって悪いとはいわない。しかし「お通し」となると、最大公約数的なものを出すのが店の良識というものだろう。こんな手合いが女性相手に「焼酎文化」をトクトクと語るのかと思うとイヤになる。
 十数年つきあっている内蔵料理の店(もつ焼きとか焼き鳥とは違う)にインターネットで予約がいっぱいになり、昔のおなじみさんが全然来れなくなったと、おやじが嘆いている。いまや名店だが、キャベツの塊りをポンと「お通し」に出す。無料である。キャベツの値が高騰した時など大変だろうと同情するが、全然姿勢をくずさない。これが信頼の基だと思う。
 もつ焼きといえば、ここ数年で店舗を増やし十数店になった店がある。一本百円。アスパラも一本百円である。もちろん「お通し」なんてない。若い客が大勢押しかけ、周囲の焼肉屋とか居酒屋チェーン店でもマッァオにさせている。しかもメニューに工夫をして、他の店にはない多種な点がいい。
 私の降りる駅前の焼鳥屋はコップにキャベツの葉を五、六枚入れて「お通し」代を取っている。以前は立ち寄ったが、あのキャベツピラピラを見るとさもしくなって、いまは全く行かない。
 なかなかやるなと思わせたのは、新宿のビルの中にある和風店で、最初に三種類の中から一つ選んで下さいと「お通し」のメニューを出す。これならこれで一つの料理として受けとれるから抵抗はない。
 そんな「お通し」など、いやなら食べなければいいんだから無視すればすむことだが、こだわるのはケチだという人もいる。
 ケチで結構、私は一食でも食べものにこだわる。特に酒を飲むというのは、ほとんど生活の一部になっているが、どうせ食べるなら、飲むなら、美味しいものを気分よく食べ、飲みたい。健康のためとか、特に理由づけはしていない。要するに気分の問題だ。私にとっては気分よく飲み食いするということで「お通し」などというケチな商法、いかがわしい内容の食べものがまかり通っているのが、いかに不自然であるかといっているのだ。
 誰もがそう思うなら拒否すればいい。こちらは客だ。正当な対価について文句をつけるのではない。堂々と断るか、一品五、六百円のものを注文して店の顔を立て、気分よく飲み食いしようではあ〜りませんか。
 
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