映画と笑いの今昔物語

日本映画に関係した人たちの、 名前の変遷なら私が一番知っている

 
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永田哲朗
昭和6年生まれ、北海道釧路出身。
昭和30年早大法学部卒、双葉社を経て、45年出版ビジネス、50年永田社設立。
月刊誌「旅と酒」「熱血小説」「○秘桃源郷」「おとこの読本」「焼酎」「実話MUSASHI」書籍「経絡の原典「現代ビジネストレンド」等発行。著書「殺陣―チャンバラ映画史」「日本映画人改名別称事典」共著「右翼民族派事典」「全学連各派」「時代小説のヒーローたち」など多数。
チャンバリストクラブ創立者。

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2011年04月06日(水曜日)更新

新著『戦後ヤクザ抗争史』、私とヤクザ

 山口組関係の著書は沢山あるが、私はローカル抗争を中心にスケールは別にして、「山口組の抗争」とは異った争いや報復劇、その他を集めてみました。
 小さな抗争であっても、有名・無名の組長が命を落としています。どちらに名分があろうと死は死です。
 ヤクザとしてこの業界に足を突っこんだ以上、ヤバいことに関わる覚悟はあるはずで、斬ったハッたはおろか、タタミの上じゃ死ねないというのが昔からの通り相場です。
 昔のヤクザのように義理人情に命を賭けるという時代は去り、いまは「組織」という非情なものの倫理がすべてのようです。
 だから私はタイトルを「侠に生き、侠に死すー組長たちの鎮魂歌(レクイエム)」としたかったのですが、販売サイドとしてはやはりガツンとくるものの方がアピールすると考えたわけでしょう。
 それはとも角、抗争50件、亡くなった組長延べ100名ほど。このドンパチ事件帖、興味のある方はご一読のほどを・・・。
 
 私は編集長当時、ずいぶんいろいろなヤクザやさんとおつきあいしました。他人から見ればかなりヤバいと思われるような面もあったと思います。何しろ忘年会に何人かが「一封」持ってきたくらいですから。
 その代わり利用されました。ボーダーラインすれすれのところまでつきあってます。「カネ」にからんだこともあります。だが、私は「カネ」は受取らなかった。これに手をつけたら完全に同類ですからね。私は、「双葉社の黒い霧」などと自称してましたが。彼らに「カネ」を貸してシカトされたことはあっても借りはありません。
 遊んでいて面白いことは確かです、サラリーマン社会とは全く異次元なだけに、ある種の魅力があります。
 一番の違いは金銭感覚です。当時の私の六、七万円くらいのサラリーに対し、彼らは一夜でそれを使ってしまう。あるいはツケにして遊んでしまう。
 銀座の女と寝て、現金がないから小切手を切って白紙で女に渡すのです。後でニ、三万なら可愛いけど、八万、十万というベラボーな金額が書かれたものが回ってきます。「あのスケはふざけやがって○万も書きやがって・・・う〜ん」などとボヤいているのです。白紙だもの、たとえ百万と書かれたって文句はいえないわけで、それでも同じことをくり返すのだから、とてもつきあいきれるもんじゃない。色に狂えばもうナーンニモ見えなくなるんだから始末が悪いや。
 映画スターにもなった有名なAさんと組んで会社を興しました。いくらなんでも今度はマジメにやるかと思ったら、やっぱり銀座通いでスッカり会社を食べてしまった。これがちょい昔なら命取りの大騒ぎにするところでしょうが、裕福なA氏は愛想づかしをして縁を切っただけ。
 しかしこんな不始末が業界中にひろまったせいか、死んだ時、葬儀委員長を引き受けてくれる人がいない。先輩、友人に皆断られ、二度も葬儀案内を出すという醜態を見せたのです。日頃の不義理が祟ったのさ、事情を知る人たちは冷笑してましたが、人間、棺を覆うて価値が定まるといいます。香典集めに苦労するとは残された者も思わなかったでしょう。人に迷惑かけっ放しというのもヤクザらしいといえばいえるのでしょうか。
 いま一人は総会屋ヤクザですが、関西の某銀行頭取のご落胤という触れ込みで、マスクはいかにもそれらしい坊ちゃま風で、ベンツを乗り回し、背広など着ず、セーターだけのラフなスタイルで銀座のクラブでモテるんです。私はこんな所で馳走になってもお返しできないと、ハシゴしようといいうのを断ると、いや気にしないで下さい。どうせタダですからと、ツラーッといています。
 彼の遊び方は一軒の店で最初はキレイに二、三回支払います。気に入ったコを一回目か二回目でモノにします。そのコは「当番」になり払いは全部このコのツケです。100万くらいになると請求されます。するとピシャッとその店から遠ざかり。別の丁目のクラブに行って同じようにくり返すのだそうです。
 何しろ店ごと信用してしまうんですから敵いません。その変わり身の早さは見事なものです。
 可哀そうなのは「当番」のホステスで、店のしきたりでツケは自分が背負わなければなりません。でもオン曹子と何度も遊んで、いい思いもしたし売れっ子ならそのていどなら、ニクいあんちくしょうぐらいですむようです。罪といえば罪ですが、うらやましいようなものです。女のコがどこかの組の幹部なんてことだとちょっとうるさいですが、それは店のボーイにニギらせて情報を得るからたいていスルーです。
 いろいろ勉強させてはもらいましたが、私には真似のできない“技”なので、身につけることはできませんでした。
 ヤクザっぽいことはわりと好きですが、ヤクザにはとてもなれない自分は、所詮平均的日本人にとどまるのでしょう。
 『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗著 文庫ぎんが堂 イースト・プレス)
 

2011年02月07日(月曜日)更新

ムカつく世相に怒りの一言 1

 私は立身出世主義を悪いとは思わない。
 青年のそれは国に活力を与える源といってもいい。ただ、戦前といまでは価値観の相違から人それぞれが、芸術なり科学なり医学なり社会福祉なり実業の世界なりに進もうというのが若い者の考え方だろう。
 かっては田ん圃の畦道より知らなかった人間が、刻苦勉励して東大へ入ってエラい役人になろうとしたものだ。そういう立身出世タイプのおよそ融通のきかない連中がはびこった結果どうなったか、一番分かりやすい例が東京の建て直しだ。
 古い話だが、関東大地震で東京が壊滅した時、後藤新平が作ったプランは壮大すぎるということで通らなかった。その第一の理由が「道路が広すぎる」だったと記憶する。現在の東京都の二分の一ていどの規模だったとしても、とに角“ホラ吹き後藤”と呼ばれるくらいスケールの大きい政治家で知られた後藤のプランは、田ん圃の畦道出身の役人どもには到底理解できなかったものに違いない。
 この時後藤プラン通りの東京市ができていたら、たとえば名古屋市の大通りのようなものがビシバシ通され、交通運輸、環境、景観の上からも利便性とか将来の発展性とかを踏まえても、立派な都市が生まれていただろう。
 第二のチャンスは敗戦後のことである。他人の不幸を利するようだが、戦災によって焼け野原となった東京の復興は、もっと容易にできたはずだ。何しろ「強権発動」という奥の手があったのだから、権利をふり回しても占領軍の威光をバックに、都市計画は思いのままにできた。
 都市づくりははじめに道路ありきである。あの混乱の時こそチャンスだったと思う。食糧危機、インフレ、生きるだけで目いっぱい、まさにどん底の時代、政府もその対応に追われていたことは確かだが、政治家にも官僚にも国家百年の計を考える者が一人もいなかったということになる。
 政府、あるいは都に「後藤新平」がいたら、当面する問題は問題として、それとは別にこの東京都をどうすべきかを考えただろう。
 人間、食の次には住だ。焼け跡にバラックを建てようとか、焼け反った所を修復するとか、あるいは土地を買おうとかやり出す。その頃「都市計画」を持ち出してももう遅い。いや、遅くはない、まだ強行する余地はあった。とに角、道路をドンドン造るべきだった。今日のようなモータリーゼーション社会になることまで予想できなくとも、人口が激増し、都市が拡がることは予想できたはずだ。
 あれよあれよという間に人が増え家が建ち、密集して、田ん圃の小路が錯綜し、道路を拡張するための莫大な予算を計上しなければならない。そして地域住民との折衝にこれまた想像以上のエネルギーがいる。
 もっと早く手を打っておけばよかったと悔やんでも後の祭り。要するに視野の広い将来を見据えた政治家、官僚が不在だったということで、これは東京都民ばかりでなく、日本全体にとっても不幸なことだった。何しろ東京都は日本の中心であり世界に向けての看板なのだから、敗戦後65年たってもまだ街中掘っくりかえしいる1200万都市なんて、全くイメージ悪いやな。
 
 立身出世主義が東京都の話に及んでしまったが、これが戦前のエラい人を生む精神的バックボーンだったといいたかったのだ。
 その善し悪しは人それぞれの判断だけれども、いま、最も卑しい立身出世主義のサンプルをわれわれは毎日見ている。誰か?
 菅直人である。日本国の総理大臣であり、民主党の代表である。
 この人物が首相になってから、早くも8ヶ月がたったが、日本国はどうなったか、一方これからどうなるのか。国民の評価は20パーセントを切ろうとしている支持率に表われている。菅首相の目的は「一日でも長く総理大臣をやっていたい」ことだという。
 世界中どこを探しても、こんなことをいうリーダーなど聞いたことがない。まるで子供がお菓子や玩具をほしがるレベルの言葉ではないか。「一日でも長く」ではなく、「日本をこういう国にするため」とか、「世界平和の架け橋になる」とか、の確固たる政治的信念とかビジョンがなければならない。「選挙公約でいっております」の話じゃなかろう。
 ただ己れの名誉欲が先行するから「一日でも長く」のセリフが出てくる。公約、マニフェスト、そんなものどうでもいい。必死になって白を黒といいくるめようとしているその醜態だ。一国の総理のものとは思われない。
 政治家にライバルは当然存在するが、昨日まで“三本の矢”とかいって結党した同志をなんとかワルに仕立ててテメェの人気を浮揚させようなんて小汚い手法にもうんざりだ。“国民の目線”でなどと謳いながら、政治そっちのけで小沢狩りをやっている姿はあまりにもナサケない。もっとやることがあるだろうが。
 私は昔日の「大将になりたい」「エラい人になりたい」という単純な立身出世の方が懐かしい。皆、目が輝き、そういう立場に立って世の中直したいとか、政治をこうしたいと真剣に考えていた。やった結果が細い道路より造れなかったとしてもだ。
 菅直人の「一日だけでも」という、己れだけのちっぽけな目標の人物がわれわれのリーダーでいる限り、日本の国に展望はない。
 こんなスケールの小さい、女々しい人物が薄ら笑いを浮かべて詭弁を弄しながら、いちにちでも長く総理の座にいるのは、世界に向かっても恥ずかしいといわざるを得ない。
 菅直人には友人がいないという。エゴイストに友人が出来るわけはない。
「一日でも長く」ではなく「一日も早く」やめてもらいたい。いや、やめさせたい。
 こんな政治理念もなく、決断力もないちっぽけな男、殺すにも値しない。
私は「バカン・・ヤロウ」とののしってやまない。全国民の唱和を願いたい。「バカン・・ヤロウ」と。
 

2010年06月11日(金曜日)更新

第40号 藤田まことは芸能界の「鑑」だ

 藤田まことが亡くなった。私は格別彼のフアンというわけではないが、『必殺仕掛人』以来の“必殺シリーズ”のフアンとして、「ムコ殿」中村主水の存在は、核であり、やはり注目していた。
 思えば息の永いスターである。彼の父親は藤間林太郎で戦前の二枚目スター、新派の出で帝国キネマや大都映画で活躍、戦後は松竹時代の老巧な脇役をずっとつとめた。温厚な家老職とか父親などがハマリ役だった。面長だったが藤田のような馬ヅラじゃない。
 藤田は子役時代から芸能界の水を飲み、『てなもんや三度笠』等で人気者になった。視聴率60とか70とかで“お化け番組”といわれ、CMの「あたり前田のクラッカー」は一世を風靡、関西のタレントから一躍全国区人気のタレントにノシ上がった。伊藤雄之助と並ぶ馬ヅラをウリにしていた三枚目が、と思うムキもあるだろうが、やはり若い時から蓄積した芸の力が、ジリジリと発揮されて来たのだろう。人情ものや刑事ものもこなし、“必殺”ばかりか『剣客商売』も自分のものにしてしまったのは見事である。
 昔から、ぼんくら、役立たず、そこつ者、間抜け、昼行燈、あほんだら、うすら馬鹿などとまで罵声を浴びせられる人は、たいていのんびり型で、必ずしも妻ノ口とは限らないのが、女房の尻に敷かれる者が多い。
 財布のヒモを女房がシッカリ握っているという安心感というか信頼の下に、亭主は一生懸命仕事に励む。非常に理想的な夫婦関係と思っていたのに、その女房が借金を、三十億とも七十億ともいわれる巨額の借金をこしらえていた。
 一億、二億のことで芸能界は大騒ぎというのでまるでケタ違いの金額である。藤山寛美のようにバクチと遊びで丸ハダカというケースもあるが、藤田はせいぜい若いコを作ったくらいで、長者番付にものるほどしっかり稼いでいたはずだ。
 事業に使ったということだが、そのほか投資だの、金のある所に群がるハイエナみたいな連中にムシられたものだろう。
 気の小さい奴なら腰を抜かすところだ。しかし藤田まことは関係者に詫びた後、シヤカリキとなって働いて、つい一、二年前完済した。
 借りたものは返すのが当たり前だが、なんだかんだいって返さないのが多いから問題にする。訴訟を起して勝訴したって、実際には返らないケースがほとんどだ。
 いまはもう昔ばなしとなったが、横井英樹という強欲な財界人のはしくれがいて、法律をもてあそび、あまりシラーッとしてナメた真似をしたので、交渉に当った安藤組の安藤昇組長の怒りを買い、安藤組の組員に、撃たれた事件が起こり、当時大センセーションをまき起こした。
 こうしたことがあると、一時期ビシッとなるのだが、またすぐ元の木阿弥、相変わらず借金騒動は跡を絶たない。
 それにつけても芸能人の金銭感覚は、一般人とはあまりにかけ離れているのに驚く。彼らは「借りた」ものは「貰った」ものとしか思わない。卑近な例で美川憲一とパトロンをめぐる金銭騒動だ、レッキとした借用証が出てきても、いや貰ったと思ったなどといって認めないのだから図々しいというより汚いのだ。
 これが勝新太郎なんかになると、もうハチャメチャで、遊びも派手だが、仕事の方でも予算オーバー無視で、テメエの気に入るような作品にするためジャブジャブ注ぎ込み、お蔭で中村玉緒はバラエテイだろうが何だろうが片っぱしから出演しまくって、勝の借金の尻ぬぐいに苦労した。恐らくずい分棒引きにしてもらったものもあるだろうが、玉緒の努力は美談といっていい。
 藤田まことと似たケースが渡辺謙で、離婚した女房の二億とか三億とかを、「俺が借りた金じゃない」といって頬かむりしてしまった。誰が渡辺謙の女房個人にゼニまで貸すものか。渡辺謙の名前が担保で貸したものだ。この金の件で別れたのか、別な女が出来て別れたのか忘れたが、一時は死ぬかと思われた大病を患った時に看病した女房だろう。政治家が「秘書が!」なんて逃げるのとは訳が違う。国際的スターとなった彼が、たとえ女房が無断でこしらえた借金にしろ、責任はないとシャーシャーいって知らん顔というのにはチト男らしくないと思うがどうだろう。
 渡辺謙がいい役者であり、今後とも大いに活躍するであろういわば日本の代表的スターだからこそ、サスガーといわせるような器量の大きさを見せてもらいたかった。
 それに引きかえ藤田まことは「女房が、、」とはひと言も弁解しなかった。彼が幾分関わったかどうか不明だが、バカげた素人商法でどんどん間口を広げたごリッパな女房を責めることなく、黙々と働きつづけて驚異的なスピードで巨額の借金を返した。
 なんでも「ごっつあん」方式で金銭にルーズな、社会的に甘える構造の芸能界にとってこれは「鑑」である。
 というより人をだまし人を踏み倒して行くのが強者であるような現代社会にあって、まさに男の「鑑」というべきものだ。
 業界の話ではテレビ局の関係者も、藤田に協力して、ロケ先で公演とかショーを催して稼ぐようにするなどしたらしい。一興行で3百万や四百万は入る。藤田は中村主水の内職じゅないが、シコシコとマジメにこなしたのだろう。
 これもふだんの藤田の人柄が関係者の同情を呼び、何とかしてやろうじゃないかということになった成果と思われる。
 生まれは東京だが関西育ちらしく、あまり然と威張らず皆に愛されるような人ずきあいがものをいった。そして、「女房が、、」などといわず潔く返済に努力する姿は、一般にも好感度を高めることとなった。
 しかし反面、このようなシャカリキな活動がオーバーワークとなり、彼の寿命を縮めたのではないかと推察することはあまりにも空しい。
 ともあれ、俳優藤田まことの借金返済は、現在の失われた道義、銭ゲバの横行する社会に対する頂門の一針であり、芸能人であろうと一般人であろうと、人間として男としての生き方を示すものとして、藤田まことを礼賛したい。
 

2010年01月26日(火曜日)更新

第39号 永遠の酒徒

 卒業記念の寄せ書きに、「酒徒」と書いたことでも知られる私が、「飲めない!」とはなんと情けないことか。
「永田さんから酒をとったら何も残らない」
 なんてヒドいことをいう人もいる。しかしそれはズバリ本質を衝いているのかもしれない。
 風が動くだけで痛い、だから「通風」とう。尿酸値が高くなって、足の親指のつけ根が赤く腫れ上がり歩くことも出来なくなる。実際なった者でなけりゃ分からない厄介なヤツである。
 数年前、金沢方面に旅行した時に発生し、車で兼六公園まで連れて行ってもらったものの、あの名園をろくに鑑賞することができなかった。その非常に残念な想いをしたことが頭をよぎる。
 ここしばらくこいつに見舞われなくて、やや放念し、油断していたためか、去年の十一月、同郷同期の三人でビアホールに入ってグイグイやった。
 実はビールのプリン体が通風の最大の敵と知っていたのだが、その時の勢いで、三人とも特にビール党でもないのに、今日はずい分勘定が高いなというくらい、ピッチャーを何回も運ばせた結果がこれである。
 やはり“酒の戦い”も時と所を選ばなければならないということか。
 足を吊って寝るほどの重症ではないが、靴を引きずって歩く、カッコワリい。しつこいヤツでなかなか腫れが引かない。まあちょっとならいいだろうなどと、お湯割り焼酎をチビチビやると、また腫れが出る。豚骨ラーメンを馳走になったら、これまたビックリ。タラ子、イクラとかレバーは控えた方がいいといわれていたが、それどころじゃない強烈なパンチで、濃厚な脂質の食べ物でもたいていビクともしないはずの“イカンゾウ”なのに、通風箇所にたちまちダイレクトに影響を与えるのにはマイッた。まさに豚骨おそるべしだ。
 そんな次第で年末の交際はできるだけ辞退したのだが、予定で出席を伝えていた会合を二つとも出るハメになった。
 もちろん医者にもキツく戒められているので、すべてウーロン茶だけで過した。
 なんとその空しいことよ! 私は飲むし、よく食う方だが、ウーロン茶では折角のご馳走も、あまり魅力あるものには映らない。酒と一緒につまんでこそ食べ物も引き立つのであって、そのような佳肴でも50パーセントの値打ちもない。
「うまいものばかり食うからだ」という慰めの言葉も空疎にしか聞こえないのだ。
 新年になって、児玉さんとひさしぶりに会ったら、
「顔色が良くないというか、ギラギラしたととろがなくなった」
 といわれた。
 う〜ん、アブラッ気が脱けたということか、良いような悪いような、微妙な感じで、ただ苦笑いするのみ。
 焼酎を湯で割って、それでも1合半くらい飲んだと思う(二人で1本空けたから)。
 児玉さんは話題が豊富だから、話がはずんでその店に3時間近くいたのだが、最近では一番量もいったし、お蔭で愉快だった。多謝。
 往年の好きな映画、チャンバラはもちろん、西部劇、探偵、刑事もの、冒険ものに『ルパン三世』など。ビデオを片っぱしからDVDにダビングしているのだが、夜、酒を飲む時間が減った分、ダビングする量が増えたことは「通風」様の隠れた功績である。
『青い山脈』前編・後編。アクションものオンリーの私にとって、まことに数えるほどしかない現代青春ドラマであるが、原節子の夢を見た。京都の団体旅行で偶然会って、なぜか仲間三、四人と親しくお茶屋のような所で話をし、おまけに近くの川で私一人が原節子について行ったのである。
 泳いだのなら彼女の水着とかヌードとかが出てくるはずだが、それは全くなく、ただ永遠の処女と、われわれ世代がマブしく憧れた原節子と直接話をした・・・それだけのことである。
 しかし原節子ほどの知性、品格、そして美貌を持ったスケールの大きい女優はいないので吉永小百合なんて横綱と前頭ほどの差があるとあえていう。清純派としてくくれば原節子がナンバー・ワンだ。
 それにしても、あまりハッキリ記憶にとどまるような夢を見たことがない。私が原節子の夢を見るとはね。潜在的に原節子が最高の女優という意識があって、『青い山脈』をダビングする時、見るともなく見て、それが甦ったのかもしれない。
 夜を徹して体力のつづく限り、いや、つづかなくて泥酔して引っくり返るまでなんてことは三十年も前に控えるところろを、年齢的な衰えを無視して『酒徒には二つの人生がある。酔いの世界という人生だ』とほざき、酔いどれて来た私に、「通風」といういやなブレーキがかかったことは「痛憤」の極みである。
 いかにこいつと共生し、わが「酒域」ともいうべきシマを拡げていくか、つまらない戦いだが、死ぬるまで生きるわが酒徒人生の大きな命題なのであります。
 

2009年12月07日(月曜日)更新

第38号 喜劇俳優、森繁久彌の功績

 森繁久彌の死が大きく報ぜられた。万人に愛された名優と、誰もが讃えている。
 確かに彼は名優である。若い頃の軽妙な三枚目からグングン芸域を拡げ、シリアスなものもやり、所謂座頭(ざがしら)役者、大スターの地位に登りつめた。喜劇、人情劇、ミュージカルと何でもこい。歌も唄えば、ものも書く、話術の達人でもあり、多芸多才、得がたき俳優だった。
 私は彼のデビューしたての頃の『腰抜け二刀流』や『新遊侠伝』を見ているが、三枚目とか喜劇役者とか、ひと口でいい切れない、こいつタダ者じゃないなという印象があった。新人なのだが、旅馴れた感じなのだ。
 戦前、満州でNHKの放送記者をやり、戦後引き揚げて来て、新宿ムーラン・ルージュの舞台を踏む。ラジオ放送『愉快な仲間』で人気が出、映画出演、とまあ順調だが、デビューは30代半ばだった。
 私は田舎者だから浅草へはよく行った。映画、芸演劇、ストリップなどもチョクチョク見た。当時はなんといってもエノケンが第一人者で、一時期シミキンや森信一、堺駿二、伴淳三郎、そしてロッパやエンタツ、アチャコのコメディアンが映画で活躍していた。主流は浅草系のコテコテガヤガヤな芸風といってよかった。
 だが、森繁はムーラン・ルージュ出身で放送記者の経験もあるせいか、軽快でテンポの早い語り口、スマートで都会的センスにあふれたムードなど、どちらかというとドタバタ調の浅草派とは違うものがあった。
 東宝の『三等重役』は彼の当り役だが、サラリーマン全盛時代の風潮にピッタリとハマったのだ。この時の河村黎吉社長はまさに絶品で、「社長」の一つのタイプを創ったといっていい。このワンマン社長に仕える森繁はサラリーマンの誰もが身近に感じる“匂い”を体現した。これは顔面筋肉や飛んだり跳ねたりの、肉体の動きで笑いを取る浅草系と明らかに一線を画すペーソスがサラリーマン大衆に受けたのだと思う。
 次いでマキノ雅弘監督の“次郎長三国志シリーズ”に森の石松でレギュラー出演し、人気急上昇。次郎長の小堀明男はじめフレッシュな顔ぶれの中で森繁は縦横無尽の活躍を見せ、特に『海道一の暴れん坊』は森繁石松の主演であり、斬られたら片目が開いたなんてギャグが大受けした。何しろ一作品出るごとにギャラがアップしたというくらい、森繁人気でこのシリーズはヒットしたようなものだ。さらに日活の『スラバヤ殿下』新東宝の『わが名はペテン師』『森繁のデマカセ紳士』といった一連のペテン師ものがある。私はこれが大好きだった。昭和30年から33年の『口から出まかせ』あたりの森繁のペテン師ぶりは、それが彼の天性ではないかとさえ思わせるようなノリの良さで、巧みな話術、人を魅きつける独特の知的なムード、加えて歌までサービスして、まことにニクい。
 私は日本の喜劇に、森繁以前と以後で質が違って来たと思っている。しかもその森繁自体が昭和30年の『夫婦善哉』のぐうたら男で、完全に演技派スターとして開眼したというか、評価が確定したというか、一大転換をなし遂げた。と見るのはわれわれだけであって、森繁にしてみれば演技の引出しからさりげなく引っぱり出したに過ぎないのかもしれない。ともあれ『猫と庄造と二人のをんな』とか『如何なる星の下に』『台所太平記』等のぐうたら人間、ダメ男で、演技派―性格俳優として喜劇俳優、コメディアンから脱皮したことは確かである。
 その一方、“三等重役シリーズ”と『へそくり社長』から“社長シリーズ”を同時進行させ、33年からは伴淳三郎、フランキー堺とトリオで“駅前シリーズ”をスタートさせるといった多忙さ。昭和30年代、40年代前半は森繁ブシがスクリーンに氾濫した。
 敗戦から立ち直り、経済大国への道を突っ走っていた頃の、平和で豊かな日本にふさわしい産物といえばいえる。森繁のポンポンポンと弾むようなテンポの良さに笑い、間のとり方の微妙な巧みさに酔った。
しかし彼も年齢と共にシリアスな傾向に移ったのは当然で、テレビの『七人の孫』や舞台『屋根の上のヴァイオリン弾き』等で、大きな足跡を残した。ただ、森繁のあまりにも鮮やかな転換ぶりを見て、喜劇俳優、コメディアンの中から“第二の森繁”と狙う傾向がふえた。これを小林信彦さんは“森繁病”と呼んでいる。
 私はビートたけしは森繁病患者だったが、それを克服して、あのようなキャクターを確立したのだと見ている。先人の跡を追う、真似る、それは大いに結構だが、シリアスな演技者になることが、格が上がったかのように考えるのはおかしい。
 新劇などの俳優にコメディをやってみろといってもおいそれとは出来ないのと同様、コメディアンはジャンルが違うけれども同じアーチストなのだ。
 そういう意味では『オシャ、マンベ』に徹した由利徹は大した役者だ。己の分を守ってその演技に徹すればいい、と森繁も泉下でいっているに違いない。
 
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