映画と笑いの今昔物語

日本映画に関係した人たちの、 名前の変遷なら私が一番知っている

 
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永田哲朗
昭和6年生まれ、北海道釧路出身。
昭和30年早大法学部卒、双葉社を経て、45年出版ビジネス、50年永田社設立。
月刊誌「旅と酒」「熱血小説」「○秘桃源郷」「おとこの読本」「焼酎」「実話MUSASHI」書籍「経絡の原典「現代ビジネストレンド」等発行。著書「殺陣―チャンバラ映画史」「日本映画人改名別称事典」共著「右翼民族派事典」「全学連各派」「時代小説のヒーローたち」など多数。
チャンバリストクラブ創立者。

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2008年07月04日(金曜日)更新

第32号  “転身役者” 若山富三郎

「オレは日本一のチャンバラ・スター」と豪語していた若山富三郎は、ご存じ勝新太郎の兄だが、デビューが弟より遅く、しかも会社が格下の新東宝だったため、かなり不遇の時期があつた。
 赤坂のホテル・ニュージャパンで川内康範さんと話していた時、「や、どうも」とセンセイに挨拶に来た。「おう、今なにやってんだ」と聞いたら「今、ナベやってまんねん」「なんだナベって?」てなことから、アメリカの万能鍋を販売していたいたことがわかったのだった。「あいつにそんな商売できるわけねえよ」と、センセイが予言した通り、見事ポシャッてしまった。あの頃がどん底かどん鍋だったんだろう。
 東映任侠映画のカタキ役がウケて『極道』で主演スターにカムバック。その後は鶴田、高倉に続く看板スターとして大活躍した。
 ダボシャツにステテコ、腹巻に、黒い山高帽という珍妙なスタイルのやくざが、大組織相手にケンカをやらかす。ハジキやヤッパなどとろくせえとばかりに、ダイナマイトで吹っ飛ばすは、バズーカ砲や装甲車まで持ち出してハチャメチャに暴れまくる。
 俗に“ガマン劇”といわれるくらいに掟やしがらみにガンジガラメになって、ワルの挑発に堪えに堪える鶴田・高倉の芝居を見馴れているファンが、開放感を覚えるせいか大喝采。ただちにシリーズ化された。
 おまけに、若山の女房に清川虹子をもってきたのがいい。殴り込みにいく時、二人がブチューッとキスをする。ここで観客はドーッと湧くのだ。まさに配役の妙である。
これまでこわもての悪役でノシてきた若山が見事に三枚目に転身したわけで、もと二枚目の時代劇スターだった若山に喜劇的センスのあることを見抜いた俊藤浩滋プロデューサーの手腕というべきだろう。
 藤純子の“緋牡丹博徒シリーズ”では、緋牡丹お竜に惚れ、兄貴分となる熊虎親分に扮した。それがまた、鼻の頭を真っ赤にしてチョビ髭を生やす珍妙なもの。いくらなんでもやりすぎだと、館主たちは反対したそうだが、俊藤プロは「二枚目がズッコケをやるのが面白い」、主役だからといってええカッコしたがるが、若山はカッコ悪い役を面白く演じてカッコ良く見せる。そこが若山の偉いところだ」と、いっていた。ズバリ、本音を衝いている。
 この熊虎親分のキャラクターも大受けで、『シルクハットの大親分』として独立。二本作られた。
 勢いに乗って“前科者シリーズ”や、“極悪坊主シリーズ”等も作られたが、喜劇役者以上にズッコケて見せるともう後はこわい者知らずで、どこでも好色な暴れん坊で罷り通ってしまう。
 “子連れ狼シリーズ”で凄絶な孤剣を揮い、NHKの『事件』等、シリアスな役をやったりしたが、あれくらい自分をぶっ壊して再生したスターは類を見ない。
 

2008年03月31日(月曜日)更新

第31号  喜劇スター・大河内伝次郎

 机龍之介、丹下左膳らニヒルな剣士で一世を風靡した大スター大河内伝次郎を喜劇人の仲間にしたら、トンデモナイと怒られるだろう。だが、時代劇スターの中で最も喜劇のセンスのあるのは大河内だったと思う。
 彼は昭和3年の正月作品で、当時の日活のトップスターでライバルだった河部五郎と『野次喜多』三部作を演っている。『仇討選手』とか『盤獄の一生』等でも、ユーモラスな演技を見せたが、決定的なのは『丹下左膳余話』『百万両の壷』で、あの虚無の剣士・左膳が喜代三の櫛巻お藤のお尻の下に敷かれ、ちょび安に振り回される小市民型左膳に変貌してアッといわせた。 
 これは伊藤大輔監督の反逆型ヒーローとは対極的な、山中貞雄監督が生んだ左膳は、大河内の芸幅を広げただけでなく、時代劇の別な方向づけを確立することになったと思う。所謂“マゲをつけた現代劇”で、大河内という当時の日本一の大スターを使ったことのインパクト、影響力が大きかった。
 大河内はその後も『怪盗白頭巾』『小市丹兵衛』、東宝へ移って『でかんしょ侍』等、喜劇タッチの作品に主演したが、東宝が後に時代劇スターとして生彩を失い、年齢的な面もあって昭和三十年までは主演作があったが、大物バイプレイヤーになって行く。
 この間『白頭巾現わる』とか『小原庄助さん』『三万両五十三次』『決戦天の橋立』等二・半(二枚目半)や三枚目的演技を見せた。三十二年東映に入社してからは完全なバイプレイヤーで、あの大河内がといわれるような役柄までこなし、百本もの作品に出た。
 そのなりふり構わぬ稼ぎ方に、往年のフアンで非難する人もいたが、実は京都に造った大河内山荘を立派にするためだった。これは現在、京都の名所の一つとして一般に開放されている。
 東映では敵役から三枚目どころまでのびのびやって好々爺ぶりを発揮したり、城を飛び出した奔放な若殿をオロオロして探す家老とか、大きなイボを顔につけた大家とかをよくやっていた。洒脱な風格はやはり存在感があり、大河内独特のエロキューションがこういう時に役に立った。
 右太衛門とか長谷川一夫のように生涯主役にこだわるのもスターの生き方なら、大河内のようにかっての天下一の大スターが飄々とコメディな傍役を演じ切るのもまた見事なものといえよう。
 

2008年03月18日(火曜日)更新

第30号 役者「伊東四朗」を見たい

 伊東四朗がすっかり大物になって、三宅裕司などが最後の喜劇スターとかなんとかかついで「伊東四朗一座」を作る。その芝居をTVで二度ばかり見たが、これがチートもおもしろくない。
 三波伸介、戸塚睦夫と組んだ“てんぷくトリオ”以来の大ベテランだ。大いに期待したのだが、私には空振りとしか映らなかった。
 何故だろう?と分析して自分なりにわかったことは、伊東の眼が笑っていない、その一点だった。
 喜劇役者が客からお笑いを取ろうとして、いくらスラップスティックな演技をしようと、ギャグやジョークを飛ばそうと、眼が笑っていないのは駄目のメだ。ステージを見ている分には、動きや声で十分笑えるのが、TVだと顔が大写しになるからハッキリわかる。これはこわい。
 彼は50年代の喜劇全盛期に浅草などに通いつめたらしい。そして遂に自分もその仲間入りすることになるのだが、最初は石井均一座とある。彼の芸名が新宿フランス座時代、伊藤証だった。
 三波、戸塚とぐーたらトリオと名乗ったがてんぷくトリオと改名したいきさつがある。彼らは由利徹、八波むと志、南利明の脱線トリオを目ざして追いつけ追い越せと頑張った。日テレ『九ちゃん!』等に出演。三波伸介の「ビックリしたな、もう!」のギャグが大受けして人気上昇。当時のコメディアンの登竜門みたいな日劇ミュージック・ホールにも出た。
 ただ、てんぷくトリオが売れたといっても、三波の人気だけで、伊東の印象は薄かった。戸塚が急死してトリオが解散。一本立ちになり、ベンジヤミン伊東の名で、『電線音頭』で踊り狂った時は、なんか呪縛からとき放たれたような趣があった。
 そしてTVドラマや映画が多くなって、例の戸塚ヨットスクールを描いた『スパルタの海』に戸塚校長に扮して主演したが 、事件のため作品はおクラ入りした。これは是非見たかった。伊東としても残念だったろう。
 その後、伊丹十三作品『ミンボーの女』や『スーパーの女』でカタキ役をやったのがなかなかの好演で、こういうシリアスなものの方が彼を生かせると納得した。
 なんといってもベストだと感じたのは、マンガをTV化した『モグロ博士』で、あれは伊東四朗以外にやれないくらいの適役である。笑いとミステリアス、恐怖をミックスした独特のムードづくりは素晴らしかった。その冷酷、非情さは、情とか義を忘れた現代人のパラドックスなのだ。
 伊丹作品や『モグロ博士』を見て、伊東の演技の質を理解すると、『伊東一座』の“喜劇”が面白くない、眼が笑っていないという私の意味がわかっていただけると思う。
 伊東はお笑いタレントの長老みたいな立場と甘んじるべきじゃないのだ。
 

2007年12月03日(月曜日)更新

第29号 番付に見る20年前 続編

 前回の『昭和爆笑王番付』紹介でお気づきになったと思うが、「誰か忘れてやしませんか」という名前がずいぶんあるはずだ。
『番付』であるから行司が当然載っている。行司は森繁久彌、三木のり平、森光子、ミヤコ蝶々、世話人が榎本健一、柳家金語楼、古川ロッパ、横山エンタツ、花菱アチャコ。
 世話人はみな故人になっている。喜劇人協会の会長・副会長だったり、いずれも戦前からの人気トップの連中だ。
 行司には本来ならば伴淳三郎が入るところだが、彼も五十六年に世を去っているので、後見人におさまっている。後見人はだから伴同様、故人ばかりで、東方に三波伸介、森川信、若水ヤエ子、古今亭志ん生、あきれた・ぼういず、柳家三亀松、八波むと志、林家三平、西方は伴につづいて、中田ダイマル・ラケット、林家染丸、ミス・ワカナ、玉松一郎、ルーキー新一、南都雄二、渋谷天外の面々。
 ここでおかしいのはあきれた・ぼういずで故人となったのは山茶花究だけで、益田キートン、坊屋三郎はまだ健在だったから、ここに入れるのは違う。元ぼういずの川田晴久と山茶花究とすべきだろう。
 相談役というのは健在であるが、第一線からちょっと引いている感じの位置づけ。東方にフランキー堺、植木等、クレージー・キャッツ、B&B、坂上二郎、中村メイコ、三遊亭円歌、清川虹子、由利徹。西方は大村崑、かしまし娘、笑福亭二鶴、ザ・ぼんち、鳳啓介、京唄子、正司地敏江・玲児、レッツゴー三匹、夢路いとし・喜味こいし、桂米朝。
 こうして見ると圧倒的にテレビタレント中心である。作製サイドの好みもあるだろうが、これで『昭和爆笑王番付』とは言えまい。まあスタンダードなものがないのだからやむを得ない事情もわかるけれども、やはり映画で活躍した人を落とし過ぎている。
 日本喜劇人協会が成立したのが昭和二十九年(1954)である。この頃活躍した人の多くが故人となって、つまり後見人に列せられているが、ここを線引きにすれば大体ナットクするのではなかろうか。
 そうすると、清水金一、岸井明、杉狂児、藤原釜足、木戸新太郎、高屋朗、左卜全、堺駿二、有島一郎、渡辺篤、大宮敏光(デン助)、曾我廼家明蝶、トニー谷、牧伸二、東京ぼん太、博多淡海、小沢昭一、藤村有弘、左とん平、桂小金治、月亭可朝、ポール牧、佐山俊二、玉川良一らの他“女エノケン”武智豊子(杜代子)、丹下キヨ子、笠置シヅ子も落とせない。
 米朝や円歌を出すなら立川談志はどうするのだ。コロンビア・トップもいるぞ。
 おっと、「勧進元」を忘れていた。菊田一夫、斎藤寅次郎、秋田実、花登筐。これはこれでキマリだろう。
 なんだかんだ注文はあるが、こういう番付もなかなか楽しいものですね。
 

2007年11月20日(火曜日)更新

第28号 番付に見る20年前

『昭和爆笑王番付』というものがある。熊本日日新聞・昭和六十年一月一日付に掲載されている。
 東の横綱・萩本健一、張出横綱・渥美清、大関・ザ・ドリフターズ、張出大関・ビートたけし。西の横綱・藤田まこと、張出横綱・藤山寛美、大関・西川きよし、横山やすし、張出大関・桂三枝、これが二十二年前の喜劇界の人気トップの顔ぶれである。
 この番付、文字通り東は関東、西は関西。あの当時でいえばコント55号を過ぎて欽ちゃん、欽どこでTV界を席巻した萩本、映画“寅さんシリーズ”で国民的ヒーローなった渥美、「全員集合!!」のドリフ、ブラックユーモア、毒舌で湧かすたけし。
「てなもんや」の藤田は“必殺シリーズ”の成功でコメディアンを脱しているが、あの「ムコ殿」で全国的人気。寛美の方が正横綱かとも思うが、やはり寛美はTVでの顔という点で一歩譲った形である。
 大関は“漫才王”のやす・きよで、これは順当だ。そして張出は落語の桂三枝、三枝もTVの司会などで売れっ子である。
 つづいて東の関脇はタモリ、張出が堺正幸、小結・泉ピン子、張出・山本晋也。西は関脇・芦屋雁之助、張出・山城新伍、小結は明石家さんま、張出が横山ノックとなっている。
 こうして見るとTV出演の頻度が人気を左右する状態がよくわかる。山本はピンク映画の監督だがバラエテイ番組出演で、お笑いタレントとなったものだし、山城新伍も軽妙な司会で映画スターというよりお笑いタレントの仲間入りしたことになる。
 以下、東方前頭は伊東四朗を筆頭として、研ナオコ、レオナルド熊、中原理恵、片岡鶴太郎、所ジョージ、山田邦子、斉藤清六、たこ八郎、宮尾すすむ、せんだみつお、東八郎、小松俊夫、竹中直人。
 西方筆頭、桂枝雀以下、オール阪神・巨人、桂文珍、笑福亭鶴瓶、西川のりお、大家政子、今いくよ・くるよ、坂東英ニ、島田紳助、松本竜助、笑福亭鶴光、大平サブロー・シロー、月亭八方、上岡龍太郎、斉藤ゆう子。
 こうしてみると渥美、寛美、ドリフのいかりや長介、雁之助、やすし、大家政子、たこ八郎、松本竜助、東八郎らは亡く、大阪府知事になったノックは失脚し、上岡竜太郎は引退した。“ビッグ3”といわれるたけし、タモリ、さんまの王座はここ十数年動かず、これと肩を並べる存在が島田紳助であり、所ジョージ、片岡鶴太郎がランクアップし、竹中直人は喜劇人の枠を超えた。その意味ではたけしや藤田まことの線を行っている。
 また、当時は出現していなかったたけし門下のそのまんま東が宮崎県知事東国原英夫として脚光を浴びているのも、まさに“番外”とつけ加えておこう。
 
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