トイレマーク見てある記

タウンウオッチングだと言い訳しても
エロ爺だろう!の視線を浴びて

 
2024年03月
01 02
03 04 05 06 07 08 09
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
 
 
大熊昭三(おおくま しょうぞう)
1928年、埼玉県生まれ。名古屋陸軍幼年学校を経て、1951年東京教育大学文学部卒業。愛知県半田高校、北海道帯広三條高校、川崎橘高校、川崎高津高校教諭を歴任して現職を終わる。
その後、専門学校の講師を勤める。その間、多くの山に登り、アフリカに遠征してキリマンジャロやルエンゾリに登頂。
教育評論家としてTV出演、週刊誌などでも活躍する。
主な著書
「こんな教師を告発する」「組合教師亡国論」(エール出版)「学校は汚染されている」(潮文社)「恐るべき親たち」(コンパニオン出版)、共著「日教組を斬る」「日本をダメにした学者・文化人」等、著書多数。

ご意見・ご要望をお寄せください

 
ユーモアクラブトップに戻る
<<前へ 123456789101112131415161718192021222324252627282930313233343536373839404142434445464748495051525354555657585960616263646566676869707172737475767778798081828384858687888990919293949596979899100101102 次へ>>

2015年08月21日(金曜日)更新

第446号 カツカッタ・ムンバイへ 地下鉄・相鉄

 子どもたちはもう寝ただろうかと、ふと我が家が案じられる。前にも書いたことだが、北海道で生まれて樺太(サハリン)に渡り、女学校で敗戦。再び北海道へ、帯広で暮らしている間に私と知り合い、結婚。そして海を渡って、川崎、横浜へ。アフリカ遠征で四カ月間、主人は留守。何かと大変だった妻の半生に感謝しつつ、実りある山行きにしなければと覚悟を決める。バンコクを出て、次はカルカッタで給油、機械整備。二十一時四十分(現地時間)カルカッタ空港着。次はインドのボンベイ(現・ムンバイ)である。いつの間にか五月四日になっていた。市内のタジ・マハールホテルへ行く。ターミナルビルの近くに、道路に、ごろごろと大勢の人が寝ている。難民ではないのだという。家の中よりはこの方がいく分でも涼しいという。そういうものかと感心する。アジズアベバはまだ遠い。のちに、紛争の国となるアデンを、その時は、何気なしに通過したのだが・・・。
 

2015年08月14日(金曜日)更新

第445号 香港・バンコクへ 地下鉄・相鉄

 距離的に遠いだけではない。政治的にも遠かった。もはや戦後ではないと言われていたが、敗戦でさまざまな制限を受けていた日本である。まだ登山どころではないというのが、外務省や文部省(文部科学省)の考え方で、なかなか許可が出ない。「小学生たちの絵を持って行って、あちらの学校で展覧会をひらき、親善をはかる」という奇策を考えだしてようやく許可がおりた。勿論、外貨持出しの制限などは外せない。制服が出来あがった。紺のブレザーで胸に「日の丸」。隊の名称は「JAPAN MtCLIMBING GOODWILL MISSION TO AFRICA」 そして私は生まれて始めての飛行機に乗り、うまれて初めての外国の土(香港)を踏んだのである。羽田を十三時三十分発。十七時半(香港時間)香港着。太陽を追いかけるようにして、ここから西へ向かう。しかし太陽の方が早い。バンコクに着く頃は、ようやく今日の陽が沈もうとしていた。
 

2015年08月07日(金曜日)更新

第444号 アフリカは遠い 地下鉄・相鉄

 世界のどこかの国へ行くためには、羽田を目ざさなければならない。まだ成田空港はなかった。外国の、主要都市などでない所へ行くのには、そのハブ空港で“通過客”として他の便に乗り換える。この「トランジット」に意外に時間をとられることがある。地球がまわっているお蔭で、私たちは成田を午前中の便に乗れば、その日の夕方には、ヒースロー空港に降りたつことができる。しかし直行便のない、チェコのプラハには、ここでしばらく便待ちして、夜半にプラハに着くことになる。かっては北極圏を飛んでヨーロッパに向かった。しかし研究者の努力によって、軽量で、しかも丈夫という矛盾した命題が解決され、もっと多くの燃料が積めるようになる。そのお蔭で直行便がぐんと増えた。しかし私たちがアフリカ遠征に向かった頃、一九六六年(昭和四十一年)頃。何回か乗り換えを要するという、アディスアベベは、かなり遠い国だったのである
 

2015年07月31日(金曜日)更新

第443号 管理者が違うと・・ 地下鉄センター北駅 駅ビルガーデン

 定年が近づく。特別の配慮で担任をはずしてもらう。やがて定年、そして専門学校の講師の職につく。その頃、年に何回か海外旅行に出かけた。ひとり旅である。経済大国になった日本。当たり前のことだが、固定相場ではなく、変動相場制である。台湾、マレーシア、タイ、エジプト、イギリス、アイルランド、トルコなどなど。カイロのヒルトンに止まったときは、円が強くて一ドル=八十円くらい。つまり百ドルの部屋に八千円で泊れたのである。昔だったら三万六千円とられたところだった。もう一つ思い出すこと。マレーシアの夜市で食べた「サテ」、日本で言うなら「焼き鳥」である。これがうまかった。気まぐれに、新橋のマレーシア料理店に食べに行ったが、あの味ではなかった。鳥小屋につめこんで育てたのと、野放しで育てた鳥の違いであろうか。ところで同じセンター北駅にあっても「市」と「商店街」との管理とでは、こんなに違うのだろうか。
 

2015年07月24日(金曜日)更新

第442号 勝者の奢り 地下鉄センター北駅 駅ビルガーデン

 戦争が敗戦に終わってもう七十年が過ぎた。アメリカに助けて貰っただけの支那。不可侵条約を自ら破って、火事場泥棒のように日本を侵略し、国際条約に反してシベリヤ抑留の悲劇をうんだソ連。こんな三流の国が、敵国条約をタテに、日本の国連理事国入りを承認しない。それでも日本は経済大国になった。そして神奈川県では、ただ「登山」だけでは許可されないということで、子どもたちの絵を持って行って「親善」をするということで遠征の許可が出た。それでも情勢はきびしい。まだ「一ドル=三百六十円」の固定相場制の時代である。しかも外貨持出し制限があった。二万円である。個人的に、欲しい土産物があったとしても、それが三十ドルだったら、もう制限をオーバーしてしまう。だから、自由時間に、街へ出てコーヒーを飲んだりするくらいしか出来なかった。女性が待っている店へ行っても、おじゃべりして帰ってくるのがせいぜいのことであった。
 
ユーモアクラブトップに戻る
 


ページTOPへ