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2015年08月21日(金曜日)更新
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第446号 カツカッタ・ムンバイへ 地下鉄・相鉄
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子どもたちはもう寝ただろうかと、ふと我が家が案じられる。前にも書いたことだが、北海道で生まれて樺太(サハリン)に渡り、女学校で敗戦。再び北海道へ、帯広で暮らしている間に私と知り合い、結婚。そして海を渡って、川崎、横浜へ。アフリカ遠征で四カ月間、主人は留守。何かと大変だった妻の半生に感謝しつつ、実りある山行きにしなければと覚悟を決める。バンコクを出て、次はカルカッタで給油、機械整備。二十一時四十分(現地時間)カルカッタ空港着。次はインドのボンベイ(現・ムンバイ)である。いつの間にか五月四日になっていた。市内のタジ・マハールホテルへ行く。ターミナルビルの近くに、道路に、ごろごろと大勢の人が寝ている。難民ではないのだという。家の中よりはこの方がいく分でも涼しいという。そういうものかと感心する。アジズアベバはまだ遠い。のちに、紛争の国となるアデンを、その時は、何気なしに通過したのだが・・・。
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2015年08月14日(金曜日)更新
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第445号 香港・バンコクへ 地下鉄・相鉄
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距離的に遠いだけではない。政治的にも遠かった。もはや戦後ではないと言われていたが、敗戦でさまざまな制限を受けていた日本である。まだ登山どころではないというのが、外務省や文部省(文部科学省)の考え方で、なかなか許可が出ない。「小学生たちの絵を持って行って、あちらの学校で展覧会をひらき、親善をはかる」という奇策を考えだしてようやく許可がおりた。勿論、外貨持出しの制限などは外せない。制服が出来あがった。紺のブレザーで胸に「日の丸」。隊の名称は「JAPAN MtCLIMBING GOODWILL MISSION TO AFRICA」 そして私は生まれて始めての飛行機に乗り、うまれて初めての外国の土(香港)を踏んだのである。羽田を十三時三十分発。十七時半(香港時間)香港着。太陽を追いかけるようにして、ここから西へ向かう。しかし太陽の方が早い。バンコクに着く頃は、ようやく今日の陽が沈もうとしていた。
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2015年08月07日(金曜日)更新
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第444号 アフリカは遠い 地下鉄・相鉄
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世界のどこかの国へ行くためには、羽田を目ざさなければならない。まだ成田空港はなかった。外国の、主要都市などでない所へ行くのには、そのハブ空港で“通過客”として他の便に乗り換える。この「トランジット」に意外に時間をとられることがある。地球がまわっているお蔭で、私たちは成田を午前中の便に乗れば、その日の夕方には、ヒースロー空港に降りたつことができる。しかし直行便のない、チェコのプラハには、ここでしばらく便待ちして、夜半にプラハに着くことになる。かっては北極圏を飛んでヨーロッパに向かった。しかし研究者の努力によって、軽量で、しかも丈夫という矛盾した命題が解決され、もっと多くの燃料が積めるようになる。そのお蔭で直行便がぐんと増えた。しかし私たちがアフリカ遠征に向かった頃、一九六六年(昭和四十一年)頃。何回か乗り換えを要するという、アディスアベベは、かなり遠い国だったのである
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2015年07月31日(金曜日)更新
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第443号 管理者が違うと・・ 地下鉄センター北駅 駅ビルガーデン
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定年が近づく。特別の配慮で担任をはずしてもらう。やがて定年、そして専門学校の講師の職につく。その頃、年に何回か海外旅行に出かけた。ひとり旅である。経済大国になった日本。当たり前のことだが、固定相場ではなく、変動相場制である。台湾、マレーシア、タイ、エジプト、イギリス、アイルランド、トルコなどなど。カイロのヒルトンに止まったときは、円が強くて一ドル=八十円くらい。つまり百ドルの部屋に八千円で泊れたのである。昔だったら三万六千円とられたところだった。もう一つ思い出すこと。マレーシアの夜市で食べた「サテ」、日本で言うなら「焼き鳥」である。これがうまかった。気まぐれに、新橋のマレーシア料理店に食べに行ったが、あの味ではなかった。鳥小屋につめこんで育てたのと、野放しで育てた鳥の違いであろうか。ところで同じセンター北駅にあっても「市」と「商店街」との管理とでは、こんなに違うのだろうか。
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2015年07月24日(金曜日)更新
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第442号 勝者の奢り 地下鉄センター北駅 駅ビルガーデン
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戦争が敗戦に終わってもう七十年が過ぎた。アメリカに助けて貰っただけの支那。不可侵条約を自ら破って、火事場泥棒のように日本を侵略し、国際条約に反してシベリヤ抑留の悲劇をうんだソ連。こんな三流の国が、敵国条約をタテに、日本の国連理事国入りを承認しない。それでも日本は経済大国になった。そして神奈川県では、ただ「登山」だけでは許可されないということで、子どもたちの絵を持って行って「親善」をするということで遠征の許可が出た。それでも情勢はきびしい。まだ「一ドル=三百六十円」の固定相場制の時代である。しかも外貨持出し制限があった。二万円である。個人的に、欲しい土産物があったとしても、それが三十ドルだったら、もう制限をオーバーしてしまう。だから、自由時間に、街へ出てコーヒーを飲んだりするくらいしか出来なかった。女性が待っている店へ行っても、おじゃべりして帰ってくるのがせいぜいのことであった。
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