トイレマーク見てある記

タウンウオッチングだと言い訳しても
エロ爺だろう!の視線を浴びて

 
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大熊昭三(おおくま しょうぞう)
1928年、埼玉県生まれ。名古屋陸軍幼年学校を経て、1951年東京教育大学文学部卒業。愛知県半田高校、北海道帯広三條高校、川崎橘高校、川崎高津高校教諭を歴任して現職を終わる。
その後、専門学校の講師を勤める。その間、多くの山に登り、アフリカに遠征してキリマンジャロやルエンゾリに登頂。
教育評論家としてTV出演、週刊誌などでも活躍する。
主な著書
「こんな教師を告発する」「組合教師亡国論」(エール出版)「学校は汚染されている」(潮文社)「恐るべき親たち」(コンパニオン出版)、共著「日教組を斬る」「日本をダメにした学者・文化人」等、著書多数。

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2014年08月22日(金曜日)更新

第396号 思えば一期一会 京急川崎駅

 父親が夏休み。ハワイへ、グアムへ、西海岸へ、小学生の「ボク」や「わたし」が、喜び勇んで成田のゲートをくぐり、そしてぐったりして帰ってくる。いい時代です。私が初めて飛行機で海外にとんだのは、私が三十八歳の時。東アフリカ諸国を旅して山に登る。そんな四ケ月の旅でした。敗戦国日本が、きびしい立場におかれていた時代です。円安だから海外旅行のチャンス!、なんて時代は想像もつきませんでした。何しろ一ドル=三百六十円という固定相場制です。外資持ち出しも制限されており、一人二万円まで。これでは土産も買えません。八月末。登山を終って三名だけ先発として帰国することになりました。諸手続きが、タンザニア政府の方針で面倒くさい。丸紅駐在の姫野さんという方がすべてやってくれました。拝みたい程の方でした。帰国後、いつか会ってお礼を、と思っているうちに、こんな年になり。まさに「一期一会」というべきでしょうか。
 

2014年08月15日(金曜日)更新

第395号 いつの日にか帰らん 京急川崎駅

 テレビで、ラジオで、そして新聞で、同じネタながら毎年のように報道されるのが、飛行機や列車、あるいは高速道路などの混雑状況である。乗車率150%とか、高速道の渋滞40Kmとか。立ったまま列車にゆられる、あるいは何時にふるさとに着くか分からない状況。それでも人々は、毎年のようにその苦難に耐えてふるさとへ向かう。そして父や母の元気な姿をみて安心し、ふるさとのご馳走に涙を流し、幼い孫たちの成長ぶりを父母に喜んでもらう。毎年のようにくり返されている苦行の一つだが、それが苦行ではない。ふるさとの山や川が、そして父母が、あるいは幼なじみが、暖かく迎えてくれるからだろう。「志をはたして、いつの日にか帰らん・・」この歌詞が、立身出世主義で怪しからん、と歌わせなかった。立派な詩も作れない、愚かな日教組の人たちである。平成の今は、すてきな里山の風景の中で、しみじみとこの歌が歌えるいい時代である。
 

2014年08月08日(金曜日)更新

第394号 巡礼は果たせぬ夢 川崎大師

 内地に転勤して、始めに出かけた遠足地は『向ヶ丘遊園』であった。ディズニーランドやハウステンボスなど新しいスポットに押されて閉園。今は私鉄の駅名に残るのみである。そうなのだ。「アルプスのこちら側の正義は、向こう側の正義ではない」という至言がある。プレイスポットも、『絶景』も『絶品』も一つではない。戦後、転向した左翼人もそれが『絶対的』だと思い込んでいるにすぎない。そういう物の見方が、若者たちにうまく伝えられたであろうか。現役をはなれたら、いつか、四国八十八ケ所を歩いて祈りたい、まわりたいと思っていたが、果たせぬうちにその体力が無くなっていた。せめてはと、勤務先だった地元の、川崎大師へお詣りしよう。初詣で著名な所である。高い所にそれと分かるマーク。親切な気くばりだ。トイレというより、一息つく所、待ち合わせ場所。中をのぞくとそういう造りになっている。多くの人が椅子で一息入れていた。
 

2014年08月01日(金曜日)更新

第393号 北海道の絶景 川崎大師

「遠足」とは言わなかったようだが、文字通り歩いて行ったのは『千代田堰堤』である。帯広市の北を東に向かって流れる大河、十勝川。産卵のために四年経ってのぼってくる鮭をつかまえる。そして筋子を取り出し、人工授精をして、稚魚を十勝川にかえす。自然のままにしておけば、産卵のために上がってきた鮭は、全身を使って卵をうみ、全精力を使いはたして死んでゆく。いわゆる『ホッチャレ』である。人間がお手伝いしてやって、代わりに、すてきな『アキアジ』を頂く。千代田堰堤はそんな場所である。田舎の魚屋で、正月近くなると、店頭に飾られた新巻鮭をみたことはあるが、あとは子どもの頃、釣り上げたフナくらいのもので、大きな魚、生きた鮭が水しぶきをあげる、迫力ある姿は、初めて目にした。バスで行った然別湖も忘れ難い。すばらしい神秘の湖であった。だから気軽に、『絶景』などと言いたくない。世界中に無数にある絶景の一つであることは確かだ。
 

2014年07月25日(金曜日)更新

第392号 尾張から北海道へ 川崎大師

 知多半島のまん中あたりに半田市は位置する。JR(当時は国鉄)の武豊線と名鉄河和線が通る典型的な都市である。ここの高等学校が私の最初の赴任地であった。春の遠足は決まっているらしく、名鉄に乗って岐阜へ行った。つい六年前、外出の折に耳にしていた、関東人の私にとっては珍しい地名を、再び耳にするとは思いもよらぬことであった。古いアルバムの中に、男子生徒たちとボートを漕いでいる姿が、セピア色に変わって残っている。岐阜城の織田信長は好きである。しかし、父の遺骨に抹香を投げつけたりした暴挙は許せない。英雄であろうが、やはり彼も人の子。泣きたい弱さを、こういう形でかくしていたのだなと、むしろ哀れみすら覚える。次は北海道。といっても札幌のような中心都市ではなく、あの頃の私個人の感覚から言わせてもらえば、果たして人が住んでいるのだろうかという不安。しかしそれは誤り。帯広はきれいな、さわやかな街だった。
 
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