トイレマーク見てある記

タウンウオッチングだと言い訳しても
エロ爺だろう!の視線を浴びて

 
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大熊昭三(おおくま しょうぞう)
1928年、埼玉県生まれ。名古屋陸軍幼年学校を経て、1951年東京教育大学文学部卒業。愛知県半田高校、北海道帯広三條高校、川崎橘高校、川崎高津高校教諭を歴任して現職を終わる。
その後、専門学校の講師を勤める。その間、多くの山に登り、アフリカに遠征してキリマンジャロやルエンゾリに登頂。
教育評論家としてTV出演、週刊誌などでも活躍する。
主な著書
「こんな教師を告発する」「組合教師亡国論」(エール出版)「学校は汚染されている」(潮文社)「恐るべき親たち」(コンパニオン出版)、共著「日教組を斬る」「日本をダメにした学者・文化人」等、著書多数。

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2016年07月08日(金曜日)更新

第491号 日本中を旅した 家族でバンガロー

 旅行好きの私は時折、幹事さんの手伝いをした。福島の土湯温泉。秋田の湯瀬温泉。富山の宇奈月温泉。和歌山の勝浦温泉で中之島旅館へ。などと、何しろ現地集合だから、どこに設営しても、列車に乗ってやって来るのは本人の責任である。そのうち、こうした集団の旅行ははやらなくなり、六〜七人くらいの小集団が旅の主流になってきた。となると、例えばひとつの学年が六クラスならば、担任は六人。音楽とか工芸などの教科は別にして、社会科や国語などの教科では大体五、六人から七、八人くらいの教師がいる。伊豆や水上あたりへの小旅行にはまことに好都合な集団である。そして勿論、家庭サービスもおろそかに出来ない。家族そろって箱根の温泉へ、というのも子供が小さいうちだけ。東丹沢や西丹沢でバンガローに泊まり、飯ごうで飯を炊いた。数えてみたら、日本中のすべての都道府県、たった一県を除いて、足をふみ入れていることが分かった。
 

2016年07月01日(金曜日)更新

第490号 すばらしい阿蘇 熊本地震

 翌日の激しい揺れ。これが本震で、昨日のは前震。多くの犠牲者を出した熊本地震。南阿蘇。立野。小国。万年山(はね山)。これらのなつかしい地名。一日も早い再興を祈りながら、私は、登山の全国大会で、この地を訪れた昔を思い出した。瀬ノ本で幕営して、万年山、九住を登り、南へ行って傾山、祖母山、阿蘇中岳に登る。解散後、佐多岬。そして鹿児島から船で屋久島へ。九州の最高峰宮之浦岳に登り、空路鹿児島に戻って、長い汽車旅を横浜に戻った。何年か経って今度は、兵庫県の鉢伏山へ。そうした生徒たちを引率する旅だけではない。当時は国体での旅行がはやっていた。学校で言えば、出来るだけ多くの職員が参加する、いわゆる職員旅行である。しかし、この学校の旅行は一寸変わっていた。「現地集合、現地解散」なのである。だから幹事は、適切な温泉を探し出して連絡し、夕食から宴。部屋割り、翌朝、朝食をすませば、そこで「解散」。それだけである。
 

2016年06月24日(金曜日)更新

第489号 山岳部の全国大会 センター北駅

 キスリングを網棚にあげ、座席の下などに新聞紙を敷いてそこに横になる。四等寝台などと称していた。早朝甲府に着き、第二の上高地と言われる広河原へバスで入る。そして日本第二の高峰、北岳を目ざす。時には、間の岳や豊島岳などの三山を縦走する。南アルプス南部の荒川岳から赤石岳へ。大鹿村に下って飯田線に出ることもあった。
 高等学校体育連盟の中の「山岳部」であるから、関東大会もあれば、全国大会もある。茨城の関東大会では、男体山―月居山と、袋田の滝を見ながら歩いた。山形県が会場の全国大会では、寒河江(さがえ)に泊り、翌日から、島原山―小朝日岳―大朝日岳と縦走。現在はフルーツライン左沢(あてらざわ)線というJR(当時は国鉄)に乗った。
 さて、437号に書いたセンター北駅。ホームの柱、あちこちにこのマーク。心くばりも、過ぎたるな何とやら。いえ、ありがたいです。
 

2016年06月17日(金曜日)更新

第488号 夜行列車の四等寝台 センター北駅

甲府に朝着いて、第二の上高地といわれる広河原から、日本第二の高峰、北岳に登ったり、豊島岳など、三千メートル級の山を縦走したり、二軒小屋から北上して赤石岳、そして中央アルプスとの間の鹿塩方面へおりたりした。転勤した高校では、またW・V(ワンダーフォーゲル部)を創設して、東北の栗駒岳方面へ連れて行った。顧問だから、生徒に比べればやや小さく軽いが、それでも10kgは越えるだろう。当節、古希を迎えたぐらいの人たちを引率して山に登ったあの頃。背にしたザックは20kgや30kgはつめこむことのできるキスリングというものであった。それを背負って夕方、新宿駅に集合した。登山者たちの集合場所は地下の定位置。いまの中央線は快速で、しかも高尾止りばかりだが、かっては23時40分頃に発車して明け方に甲府などに着く、いわゆる「山ヤ」向けの列車があったものだ。発車してしばらくすると、照明を落としてくれる。ほんの一部の人たちだけが賑やかだが、眠らないと、登山中の自分がつらいのだということを、皆、経験から知っている。
 

2016年06月10日(金曜日)更新

第487号 クラブの夏季合宿 センター北駅

 修学旅行に担任としてついて行くのは四〜五年に一度であるが、クラブ顧問は毎年、ついて行くことになる(勿論、合宿をやるクラブの場合である)―― 忘れてました。組合批判をして、市内にある分校に転任になった。女子だけの家庭科コース。上野に集合して、青森へ、連絡船で函館へ、札幌―帯広―釧路―硫黄山や屈斜路湖、網走湖、オホーツク海岸の原生花園。旭川、層雲峡、定山渓、そして函館から連絡船。すっかり疲れきって上野に着いた、というかってのコースを逆にたどった旅もあった。
 運動部に限らない。文化部でも例えば、美術部とか吹奏楽部などは、当たり前のように合宿をする。パートの練習も大事。全体の演奏も大事。そのための広い部屋を用意して生徒たちを迎えてくれる“山荘”などがあちこちにある。
 
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