トイレマーク見てある記

タウンウオッチングだと言い訳しても
エロ爺だろう!の視線を浴びて

 
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大熊昭三(おおくま しょうぞう)
1928年、埼玉県生まれ。名古屋陸軍幼年学校を経て、1951年東京教育大学文学部卒業。愛知県半田高校、北海道帯広三條高校、川崎橘高校、川崎高津高校教諭を歴任して現職を終わる。
その後、専門学校の講師を勤める。その間、多くの山に登り、アフリカに遠征してキリマンジャロやルエンゾリに登頂。
教育評論家としてTV出演、週刊誌などでも活躍する。
主な著書
「こんな教師を告発する」「組合教師亡国論」(エール出版)「学校は汚染されている」(潮文社)「恐るべき親たち」(コンパニオン出版)、共著「日教組を斬る」「日本をダメにした学者・文化人」等、著書多数。

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2012年02月03日(金曜日)更新

第276号 なつかしい二部授業 さがみ大野OX

 何百万という生命を捧げて戦争が終った。多くを失って焦土の中で生きてきた。幸いにして生命永らえた若者は、祖国に帰りついて家庭の暖かさに涙した。涙したついでに子づくりにも励んだ。そして生まれたのが、世に言う団塊の世代である。「食う、寝るところに住むところ」というが、まず食料。そして公営の住宅。学校の建築どころではなかった。しかし「乞食の子も三年経てば三つになる」から、やがて学齢。教室が足りない、校舎が足りない。とりあえず住居を、ということで、私も横浜郊外の公営住宅に住んでいた。やがて上の子が、二年後には下の子がそれぞれ小学校へ入学。しかし郊外のその小学校は大変な騒ぎである。一クラス七〜八十人が教室に満杯。しかも窮余の一策で、午前、午後にそれぞれ分かれる。いわゆる二部授業をやっていた。戦後のあの時代。やむをえないこととはいえ、私は妻と相談して、二人を私の小学校へ入学させたのである。
 

2012年01月27日(金曜日)更新

第275号 すしづめ学級万歳 さがみ大野OX

 役人も先生方の組合も、口を揃えて『三十人学級』を言う。なるほど、一クラスの子どもの数が少なければ、目が行き届いてよい教育が出来る。理想は一対一だろう。たしかに理くつはその通りで、単純な親もうなづいている。しかしホンネのところは、先生の数を減らさないですむ、という、いわば雇用の確保、組合員減少の歯止めである。はたして子どもの心情はどうだろうか。教師を仕事として生きてきた私も、かっては児童であり、生徒であり、学生であった。その頃の体験も想い出す。そして選択のため二十人たらずのクラスで教えたこともあるし、専門学校では時間制の都合上、百名以上の合同クラスで、マイク使用の講義もやった。少人数のクラスでは指名される確率は高いし、出席簿順ならすぐにさされる番がまわってくる。人数の多いクラスなら、安心(?)して、教科書の陰にかくしたマンガを見ていられる。休み時間でも人数の多い方が賑やかでよい。
 

2012年01月20日(金曜日)更新

第274号 回想の駅 小田急渋沢駅

 北アルプス。蝶ケ岳と常念岳の鞍部、常念乗越に出る道は、一の沢という沢ぞいの道なので気が楽だ。しかし中房温泉から燕山荘へ向う登りは、木立ちが茂って全く眺望のきかない合戦尾根を登る。これもきつい。丹沢のバカ尾根も、眺望もあまり望めず、ただ黙々と足もとをみつめて登ること三時間から四時間。なるほどバカ尾根の意味がよく分かる。
 小田急の渋沢という駅で下車。下りホームにおりるとそのまま、木の改札へ直行。改札を出るとそこはもう駅前茶店の一画である。夜間登山のときはここでそばを食べたものだ。改札はこちらしかない。バスはここから出る。そして右折、左折をくり返して小田急線をわたり、駅の裏口へ出て、登山口へと向かう。それがどうだ。今やまるで裏口が正面口にように立派な駅になり、バスターミナルも、ビルも立ち並んでいる。トイレは橋上駅舎にある。私はしばし何十年か前を回想した。体力があればもう一度バカ尾根を歩きたい。
 

2012年01月13日(金曜日)更新

第273号 アホとバカ 小田急渋沢駅

 民主党政権、最初の国土交通大臣、前原さんは「八ツ葉ダム」建設中止を表明した。それからいろいろ会議があり、もめて、現大臣は建設を明言、予算も計上された。それでも前原さんは「中止」と言いつづける。あの頃も私は言った「アホの前原さん」ヨシモト向けのあの顔は今でもアホである。しかし「バカの前原さん」とはきつすぎて言いにくい。「バカとはさみは使いよう」というが、ことばもそうである。もし汗ばむような日が来たら「今日はバカ陽気で」といって半分はこの陽気を喜んでいる気配がある。「アホ陽気で・・」とは言いにくい。酔って帰ったご主人「バカな悪友に誘われちゃって」などというが、親友だからこう言える。相手を本当にバカと思って「バカ、止めろよ」と言う人は一人もいない。半分以上は親しさの表れである。神奈川の丹沢。1491mの塔ケ岳へ至る長尾根。私たちはいつもここを登った。通称バカ尾根という。
 

2012年01月06日(金曜日)更新

第272号 かけもち講師の生活 藤沢駅

 履歴書風にいえば、名古屋陸軍幼年学校へ入学するまでと、復員後、東京高師に在学中の年月を合わせた十九年を、親もとで暮らしたことになる。八十余年の人生からみれば短いものである。名古屋周辺が約三年、北海道帯広が二年半。転居した川崎、そして横浜へと、数えてみたら約六十年近くを、横浜の、神奈川の人間として生きてきたことになる。別に不思議でも何でもなく、ごく当り前の人生なのではあるまいか。(跡をつぐという長男の立場が、昔は考えられたが、当節はその意識も薄くなっているようだ)その割に、私は神奈川の地理や情勢にあまりくわしくはない。横須賀で講義をし、一旦横浜に戻って軽く夕食。少し時間をつぶして東海道線で藤沢へ。夜の講義をする。教室へ直行。そして帰りも十時近くなるので家へ直行。だから駅の、江の島行きホーム、改札を入ってすぐ左手に、警戒厳重なトイレが、しかも平凡なマークで利用者を迎えているとは知らなかった。
 
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