トイレマーク見てある記

タウンウオッチングだと言い訳しても
エロ爺だろう!の視線を浴びて

 
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大熊昭三(おおくま しょうぞう)
1928年、埼玉県生まれ。名古屋陸軍幼年学校を経て、1951年東京教育大学文学部卒業。愛知県半田高校、北海道帯広三條高校、川崎橘高校、川崎高津高校教諭を歴任して現職を終わる。
その後、専門学校の講師を勤める。その間、多くの山に登り、アフリカに遠征してキリマンジャロやルエンゾリに登頂。
教育評論家としてTV出演、週刊誌などでも活躍する。
主な著書
「こんな教師を告発する」「組合教師亡国論」(エール出版)「学校は汚染されている」(潮文社)「恐るべき親たち」(コンパニオン出版)、共著「日教組を斬る」「日本をダメにした学者・文化人」等、著書多数。

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2016年04月28日(木曜日)更新

第481号 永平寺への旅 横浜・ルミネ

 転勤先の川崎市の事情で、一緒に旅をした生徒たちの卒業を見届けずに、帯広を去ったことを、私は今でも、「済まなかった」と思っている。さて、川崎に転勤してすぐに担任をやることになった。そして修学旅行。今でこそ、新幹線のお蔭で、金沢まで二時間とちょっと。金沢観光が本当に身近になったが、長い間、上野を夜行で出て、朝に金沢着というのが定番であった。駅前の茶屋旅館(改築して普通のホテルとなる)に泊まる。市内を観光。次は永平寺に宿泊。修行中のお坊さんたちを珍しげにみつめながら、修行のきびしさなどを聞く。大広間に三十人足らずの女生徒が布団を敷いている光景は、わびしくさえ感じられた。このあと、五〜六回は金沢や能登半島に旅しているが、この修学旅行の引率が始めてであった。というより、個人的にあちこち旅したという記憶よりも、修学旅行や、部活動で出かけたという旅(?)の方がほとんどといってよかろうか。
 

2016年04月22日(金曜日)更新

第480号 修学旅行は強行軍 横浜・ルミネ

 三月二十六日。いよいよ新幹線が青函トンネルをくぐって、北海道の大地を走る。夢にまで見た北海道の青い空。この日を待ち望んでいた中年の方は、NO.1のチケット(東京行?)を手に、涙ぐんでいた。どんなにか嬉しかったことだろう。私が帯広に行く頃。東北本線の田舎の駅を夕方に発つて、夜行で青森へ。勿論「急行」である。昼すぎ、青函連絡船に乗って函館へ。そして根室行の急行に乗り「幾寅」などの駅名を夢うつつに聞きながら、日本の三大車窓を夜明けに見て、帯広の駅へ。これが最も早くて確実な旅程であった。修学旅行はこれを逆に辿ることになる。狩勝峠を越えて札幌へ。函館には昼頃。連絡船に乗って青森へ。再び夜行にゆられて翌朝早く、日光へ。その足で上野へ。都内はバスで主な所を走りぬける。二泊して東海道線で京都へ。大阪へ。バスで大阪城や奈良などで遊んで、さあ、帰りは大阪から日本海ぞいを、汽車で二泊の強行軍である。
 

2016年04月15日(金曜日)更新

第479号 北の国の修学旅行 横浜ルミネ

 あの少年たちも、も早や「喜寿」を過ぎたのであろうか。二〜三カ月に一回くらい、許可を得て外出する。それはやはり名古屋市内であって、岐阜に行き、城を仰ぎながら長良川で遊ぶというのは全く始めてのことであった。
 次は帯広。校外学習として、歩いて出かけたのは、帯広市から歩いて行ける千代田堰堤であった。暮れになって、魚屋の店先でつるしてある、塩鮭を見たことはあるが、あの大きな鮭が、生きて泳いでいる姿を見たのは始めてであった。間もなく十歳とは離れていない、威勢のよい若者たちの担任となる。敗戦の痛手空からようやく立ち直ろうとしている頃だから、「観光」どころではない。帯広の北にある、秘境・然別湖(シカリベツコ)へ、遠足で出かけた。もう観光バスが使える時代になっていた。しかし、少年、少女たちが二年になると、海を越えて、大阪までの修学旅行という大へんな行事が待ちかまえていた。
 

2016年04月08日(金曜日)更新

第478号 再び名古屋へ 横浜・ルミネ

 何回か、この欄で述べたことだが、私は勝ちいくさの頃の記憶も鮮やかであり、それ以上に負けいくさも鮮烈である。つまり、子どもから大人になる頃は戦争ひといろに塗りつぶさていた。だから「旅行」に出て、おいしい物を食べて、という記憶は全くない。「遠足」といえば、文字通り、近所の町などの神社などへ歩いて行く。まことに、ささやかな思い出しかないのが、私の子どもの頃のことである。
敗戦。東京高師に入学し、そこを卒業して、最初に赴任したのが、愛知県の知多半島にある半田高校であった。赴任して1月ほど経ったころであろうか。春の校外教育ということで、戦中、小牧にある軍の学校にいたから、少しは馴れている名鉄(名古屋鉄道)に乗って岐阜へ行った。新任の私が珍しいのか、男子生徒がやたら寄ってくる。そしてボートに乗って水をかけ合ったりした。長良川でのことである。それは今でもセピア色の写真に残っている。
 

2016年04月01日(金曜日)更新

第477号 大ざっぱは直らない あるスーパーで

 始めの二〜三カ月は下宿住まいだった。おばさんが作ってくれるみそ汁。何か分からないが野菜の葉がいっぱい入っていた。「かいべつです」と言う。そうか、キャベツの葉の部分か。多くの日本の山々を歩いて来た私の登山靴。いとしい靴である。いつの間にか無くなっていた。北海道育ちは開拓者だ。古い物はどんどん捨てて、新しい世界を切り拓いて行くのだろう。大ざっぱで、古いものは遠慮なくゴミ回収車に。そういう生活よりはるかに長く、この内地で暮らしてきたのだから、掌にのせた豆腐をさいの目に切って、というところを見せても良いのではないか。
 ところで、今回のマーク。区内のあるスーパーで見つけたものだが、室内では見つからなかった。店の入り口から、一旦、外に出て、角をまわった裏側にあったのである。雨の時は、客に、「傘をさして行け」とでもいうのだろうか。お客さまは神さまだなら、神さまが雨にぬれないようにするべきではないか。
 
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