トイレマーク見てある記

タウンウオッチングだと言い訳しても
エロ爺だろう!の視線を浴びて

 
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大熊昭三(おおくま しょうぞう)
1928年、埼玉県生まれ。名古屋陸軍幼年学校を経て、1951年東京教育大学文学部卒業。愛知県半田高校、北海道帯広三條高校、川崎橘高校、川崎高津高校教諭を歴任して現職を終わる。
その後、専門学校の講師を勤める。その間、多くの山に登り、アフリカに遠征してキリマンジャロやルエンゾリに登頂。
教育評論家としてTV出演、週刊誌などでも活躍する。
主な著書
「こんな教師を告発する」「組合教師亡国論」(エール出版)「学校は汚染されている」(潮文社)「恐るべき親たち」(コンパニオン出版)、共著「日教組を斬る」「日本をダメにした学者・文化人」等、著書多数。

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2016年02月19日(金曜日)更新

第471号 うどんマップ 田園都市線 溝の口

 たしかに「讃岐うどん」「稲庭うどん」「水沢うどん」などは全国区であろう。しかし、全国区でないにしても、割とよく知られた「伊勢うどん」もあるではないか。もっと言うなら、関東平野では、その広大な平野のあちこちに、土地自慢のうどんがある。山梨のほうとうなどもその一つの例だろう。そして、それらの町や村では「うどんマップ」まで作って、観光客を呼び込んでいる。先に述べた母のふるさとのすぐ北に「加須」(かぞ)という町がある。いや、市になっている。うどんマップにふさわしく、たしかにコシがあって旨い。クラス会で田舎に帰ったとき、食べに行ったことがある。ところが何のことはない。足もと、つまり私の生まれ育った田舎の町も(マップがあるかどうか分からないが)あちこちに「うどん」を売りものにする食堂があるではないか。そしてそれぞれに旨い。何かの行事には必ずうどんを食べるという習俗は本当だった。
 

2016年02月12日(金曜日)更新

第470号 しもつかれ・・とは 田園都市線 溝の口

(前稿のつづき) 土地の人が何とよんでいたか、今となっては知るよしもない。その郷土料理の発祥が栃木県南部地帯、利根川に近いあたりだとすれば、郷土の古名にちなんで「しもつかれ」とよんだのもうなずける。群馬県を「上州」(かみつけ・・上野。京都に近いから)とよび、栃木県は京からみて上野(こうづけ)より遠いから「下野」(しもつけ)と言った。しかし、私の母の田舎は、私の生まれ田舎の、ちょっと先の村であって、栃木県(下野)とはゆかりもない。だから栃木の「しもつかれ」を作るのが次第にこのあたりまで広まってきても、正しい呼び名など気にもしない。耳に入ってきた通りで「すみつかれ」と呼んだのではないか。私はそう推測している。もう一つ。このあたりで特長的ことは、田んぼもあった。畑で作られたものは「大麦」や「小麦」であった。三大うどん(といっている)の一つ」、水沢うどんがある。
 

2016年02月05日(金曜日)更新

第469号 インジエラ 二子玉川高島屋

 うどんやそばを、めん棒でのばしたようなもの。と考えれば分かりやすい。これを千切って、皿の上にある、よく煮こんで味のしみた肉や野菜をくるんで食べるのだという。生まれて初めての食べものである。当時は、ハイレ・セラシエ皇帝のいらした時代である。親日国でもある。まさか毒が入ってとは考えられない。恐る恐る口に入れる、発酵しているせいか、やや酸っぱみがあるが、なかなか美味しい。「インジエラ」というものだそうだ。ごま粒より小さい穀類、「テフ」を粉にして生地のようなものを作るのだという。エチオピアのご馳走である。定年後の講師時代。東京では各国の料理が食べられるが、エチオピア料理店に行く折が、なかなか作れなかった。もう一度、食べてみたい。
さて、かっては「オカジュウ」(自由が丘)とか、「ニコタマ」(二子玉川)と言っていた。しかし生命にかかわることだから、食べ物の好みは、簡単に替えられない。
 

2016年01月29日(金曜日)更新

第468号 エチオピアのご馳走 二子玉川高島屋

 生まれつき「不器用」なのはどうしようもないが、あまり魚に縁のなかった子ども時代。大人になって酒席のご馳走でも、魚の骨などがうまく外せない。汚い、散らかし方しかできなかったのが恥ずかしい。定年になってからは、年に二回は海外に出た。台湾や、東南アジアなどでは一寸した街なら、必ず中華料理店がある。中華料理、例えばめん類やチャーハンなどなら、家族で作って食べていたから、全く違和感がない。今日は何を食べようか、なんて案ずることもなかった。ただ、要求しないと、″箸″を出してくれないのだけが気がかりだった。そしてふと思い出すのは、アフリカへ登山で遠征したときのことである。エチオピアの首都、アジスアベバに着いて、土地の一流ホテル、ギオンホテルに行く。そして夕食を頂く。直径が30cmくらいのざるのようなものが皿の上にのり、日本でいう″ふきん″のような、茶色く汚れた感じのものが上を覆っていた。
 

2016年01月22日(金曜日)更新

第467号 母の教えた味覚 二子玉川高島屋

 秋になると、田んぼが色づく。親孝行のつもりでイナゴ捕りに出かける。袋いっぱい捕ったイナゴをそのままにしておいて、袋の中で糞をさせる。翌日、大きな鍋に入れて煮る。一ゆでしてあっさりと天日に乾かしてから、羽やギザギザ足などを取って砂糖、醤油で煮込む。田んぼがなくなって、家が建てこんでくるから、イナゴの姿もほとんど見かけない。代わりに食卓に並べられるのは、ナポリタンであり、ハンバーグであり、キムチである。世が移り変わってゆけば、目にするもの、口にするものも様々に変わってゆくのはやむを得ないことなのだろう。子どもの頃、母に教えこまれた味覚などは、しかし私は死ぬまで抱えこんでゆきたいと思っている。関西人がびっくりする、うどんの汁にしても、関東は濃いのが当たり前ではないか。好奇心でたこ焼きを食べても、うまいうまいとお世辞抜きでは口に出来ない。最初はやはり「恐る、おそる」である。
 
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