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2010年12月24日(金曜日)更新
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ユーモアクラブのためになるユーモア講座 195
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最近は天気予報がよく的中する。まことにご同慶の至りだが、意外性がなく、つまらなくもある。朝起きて窓のカーテンを開くと、意外や外は白一色の銀世界などということはあまりない。こちらでは、低気圧の北上で朝方までに三〇センチ前後の降雪が予想されると報じられていたので、一軒家に住んでいる亭主族たちは、明日二三日は休日でもあり雪撥ねに駆りだされるのかと居酒屋で酒を飲んでいても、いささか憂鬱な影がその顔を過ぎっていた。その点、マンションといっても実体は貸し部屋の雑居ビル並みのところに住んでいると、雪掻きをしないのですむので、雪見酒と太平楽を決め込んでいられる。
雪が降ると騒音が吸収されるので日頃の喧騒がかき消され、街はいつになく静まり、幅を狭められた道を行く人たちも行き交う人に軽く頭を下げるなど謙虚な感じで悪くない。それにつけても、世情のなんと殺伐としたことか。どの国もすこぶる身勝手で、一触即発、戦争でも始めかねないほど力みかえっている。ここは一番、降る雪でも眺めながら、頭を冷やしてもらいたいものだ。ところで、飲み屋のママたちは、それでなくとも不景気で客足が遠のいているのに、雪が降ると雪掻きをしなくてはならないし、その上、“雪は降る、あなたは来ない”ので、うんざり顔をしている。雪は本格的に降り続いている。このままだと、交通機関ばかりでなく、ふだんの生活にも支障がでかねない。降る雪は綺麗だが、「我が物と思えば軽し傘の雪」(其角)。この程度がよさそうだ。
先ほどから、除雪車の音が静かな街に響きだしている。雪に泣かされる人あれば、雪のお蔭で商売になる人もあり。「 市人に此傘の雪うらん」こちらは芭蕉。
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2010年12月17日(金曜日)更新
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ユーモアクラブのためになるユーモア講座 194
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年賀葉書の受け付けが始まった時節柄、喪中の知らせが届くようになった。最近、どうも年賀欠礼の挨拶状を受ける回数がとみに多くなった感じで、その分、当方の書く年賀状は減るわけで、まるでわが身の先行きの短さを映し出して見せられている感じがする。しかし、「生は寄なり。死は帰なり」という。人生はこの世にある間の仮の宿。死は故郷へ帰るようなものだ。そうであってくれるとよいが。
臨死体験というのがある。アメリカで刊行された本に述べられている、いったん死んで息を吹き返した人たちの話では、美しい光りのトンネルがあって、妙なる音楽が奏でられており、そのトンネルを抜けると大きな河が流れていて、その向こう岸には亡くなった知人が大勢ならんで、こっちへ来いと手を振っている。素晴らしく気分がよいそうだ。しかし、まだ早いと諭す声が聞こえ戻ってきたという。いずれの体験談も、氏素性、貧富、肌の色、宗教などとまったく関係なく共通している。やはり三途の川もあるらしい。これから判断すると、死は案ずるほど苦しいものではなさそうだ。
まさに、死はあらゆる人を平等にする(Death is the grand leveler)。あるいは、死は万民に平等(Death spares Pope nor beggar)。死は恐れるにたらず、巡り来る一日一日を悔いなく過ごして、死の訪れを心楽しく待つぐらいの余裕を持ちたいものだ。まさに、卿雲爛たり、礼縵縵たり、日月光華あり、旦復旦。目出度く雲が美しく輝き、日も月も華やかに照り、のどかな日が続いている。こんな心境で暮らしたいものだ。
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2010年12月10日(金曜日)更新
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ユーモアクラブのためになるユーモア講座 193
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今年も残すところあと僅か、何かと心せく向きも多いことだろう。しかし、いまさら焦ってもどうなるものでもない。いつものペースを守るに如くはなし。また一年かけて、太陽の周りを回るに過ぎない。輪廻の塵。輪廻の波。輪廻の妄執を捨て去るべしか。自然の移り変わりに身を任せて、流れるごとくに生きたいものだ。
「地僻にして人到り難く、渓深くして鳥自ら飛ぶ。羨む君が外事なく、日に世情と違うを」(地僻人難到 渓深鳥自飛 羨君無外事 日興世情違)鄭常「寄刑逸人」。 俗世間のことを無視して、日ごとに浮き世と乖離する君が羨ましい。
「一僧年八十、世事未だ曾って聞かず」(一僧年八十 世事未曾聞)買島「暮過山寺」。 暮れ方、山寺を通ると、老僧一人、世事のことは何一つ耳にしたことがないかの趣だった。
「今宵酒あれば今宵酔い、明日憂い来れば明日愁う」(今宵有酒今宵酔 明日愁来明日愁)確か、再度の登場。権審「絶句詩」。 これぞ、悟りの心境ならん。
「人事代謝あり、往来古今を成す」(人事有代謝 往来成古今)孟浩然。 この世の移り変わりは激しく、有為転変によって過去現在が形づくられる。
人の一生を蓮葉の露と見立てて、さてどう生きるか。いたずらに齷齪するのは、あまり利巧ではないような気がする。
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2010年11月26日(金曜日)更新
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ユーモアクラブのためになるユーモア講座 192
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最近久しぶりで、テンション民族という言葉を思い出した。一時期、われわれ日本人を批判とまで行かぬまでも挙げ足取りの意味でよく使われたものだ。野暮で、心にゆとりがなく、融通が利かず、肩肘はって四角四面。いきり立つ。そう、つい先日の法務大臣の例の発言を巡り、多少大げさに言うと、日本中がひっくり返らんばかりの騒ぎだった。私などに言わせるなら、珍しく日本人離れしたまことにユーモアにとんだ挨拶だと思うが、それこそ自分を揶揄されたとお思い込んだ議員たちが国会軽視だと力みかえって、本来の肝心の予算審議をなおざりにしたのは笑止千万。法相の発言の正鵠さを、自分たちが裏づけてやっていることに気づかずにいる議員たちは裸の王様だ。脛に傷を持つ身の過剰反応。もう少し心にゆとりを持って、重要な職務に専念してもらいたいものだ。
しかし、あの大騒ぎも、韓国大延坪島への北朝鮮による砲撃で、瞬時にして雲散霧消。菅内閣にとっては、被害者には申し訳ないが、救いの神となった。禍福はあざなえる縄の如し。むろん、対岸の火事と安閑とはしていられない。関係各国はあくまでも慎重な態度で臨んで欲しいものだ。
権貴竜驤、英雄虎戦、以冷眼視之、如蟻聚羶、如蠅競血。(けんきりょうじょうし,えいゆうこせんす、れいがんをもってこれをみれば、ありのせんにあつまるがごとし、はえのちにきそうがごとし)。羶(せん)は生臭いもの。権勢や富貴を求める争いは、客観するに、蟻が生臭いものに蠅が血にたかるに等しい。
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2010年11月12日(金曜日)更新
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ユーモアクラブのためになるユーモア講座 191
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何かと騒々しい世の中、ここはまず一息入れて平常心で。まずは時を待つのが肝心という、ご存知「イソップの物語」の中の一編。
ほぼ飢餓状態のキツネが、狩人たちの置いていったパンと肉を樫の木の虚に見つけた。中に這いずりこんでご馳走を平らげたキツネは、腹がふくらんで虚から出られなくなった。たまたま通りかかった別のキツネが、悲鳴を聞きつけて近づくと事情を聞かされ、こう応じた。「なるほど、入り込んだときと同じ細さに戻るまで待てばいい。いとも簡単に出られるさ」その心は、大国の我がまま、あるいは横車。これは僻目か。ここは素直に、待てば海路の日和あり、か。困難な問題も時が解決してくれる、としよう。
それにもう一つ。大力で有名なギリシャ神話の英雄ヘラクレスが道を歩いていると、リンゴに似たものが落ちていたので踏み潰した。すると、その代物は二倍の大きさになった。そこで、さらに踏みつけ棍棒で殴りつけると、道を塞ぐほど大きくなった。そこへ、知恵・芸術・戦術の女神アテーナが現れて知らせた。「これは挑発を受けなければ、元の状態を保つけれど、挑みかかられると、ご覧のとおり大きくなりますよ」この教えは、喧嘩口論、争いごとは無限の害をもたらす。原題は、モグラの山が大きな山に化ける。すなわち、針小棒大。その心は、針小棒大の騒ぎは災いの元。必要なのはいつものことながら冷静沈着さに、知性的な熟慮か。
「浅瀬に徒波」とも、「深い川は静かに流れる」とも言う。どちら様も冷静に。
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