ユーモアクラブの
ためになるユーモア講座

古今東西あまたの名言、格言、人生訓など「ユーモアの宝典」を連続紹介

 
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ダーク・ヒグマーノ
 (翻訳者 中山 善之)
1935年、北海道生まれ。

慶應義塾大学卒業。外資系メデァ日本支社勤務後、翻訳家に。乱読家で東西の本は勿論中国古典なども好む。
訳書としては世界中でベストセラーになっているクライブ・カッスラー著「ダーク・ピット」シリーズ全20巻(日本語版計32冊、新潮社文庫)。
ヤノフ著「原初からの叫び」(講談社)。ムーディ・jr著「かいまみた死後の世界」(評論社)など多数。
近頃は山奥での魚釣り、たまにはゴルフもするが一番は大酒のみ。

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2008年12月19日(金曜日)更新

ユーモアクラブのためになるユーモア講座 110

 過日、早々と忘年会があって玄関先に出ると思いのほか雪が積もっていた。会場まで歩いていくのは雪が深すぎて大変なので、引き返して車を頼み革靴をブーツに履き替えた。会場の一面のガラス張りの外は松の木立で、枝には雪が降り積もっており、それと二重写しに室内の赤いランプが照り映えて、ホワイトクリスマス気分は満点でみんなご機嫌だった。
 
 ところで、クリスマスとはイエスの誕生を祝う日なのだろうが、本当に12月25日に生まれたのだろうか。世の中には何事にも詳しい人がいるもので、その人が言うには、イエスの誕生日が何時何時と聖書にはまったく記されていないそうだ。12月25日は、古代ローマ時代には民衆の祝日だったそうで、その日を冬至、すなわち冬が終わり春が蘇る日として祝っていた。そこで、異教徒の祭りと時期を同じにするために、12月25日が選ばれたという説が目下のところ一番有力だそうです。となると、異教徒たる我が日本人が派手にクリスマス騒ぎをしても、咎められる筋はないことになる。この不景気では、そうもいかないだろうが。

 それはともかく、12月25日ではないことを裏づける証拠はないかと考えてみたらありました。イエスの誕生を祝いに来た東方の三博士の絵です。「東方の三博士の来訪」は有名な大勢の画家が描いているが、どの絵を見ても冬めいた要素は見当たらない。登場人物はみな腕や肩を出しているし、常緑樹だからオリーブの葉が青いのは当然としても、背景の丘陵地は緑に覆われている。キリストは、すくなくとも冬生まれではなさそうだ。メリー・ホワイト・クリスマス。
 

2008年12月12日(金曜日)更新

ユーモアクラブのためになるユーモア講座 109

 毎年、暮れになると繰言のように、今年も終わりですな、やあ、時の経つことのはやいことなどと、やや詠嘆口調で言い合う。しかし、そんなことを言うようになったのは何時ごろからかと考えてみると、やはり少なくとも四十を過ぎてからではなかったろうか。今年も何かを仕残したというある種の悔い、それに行く先が短くなったという老年に対する獏とした不安が言わせるのだろう。

「まことに老人よ、お前はやって来る時、他に何ひとつ災いもたらさぬとしても、このことだけで十分だ。命長ければ、望まぬものを沢山見る、と言うことだけで」ローマの喜劇詩人カエキリウスのセリフの一部である。しかし、それに対して、キケローはその著「老年について」(中務哲郎訳)の中で次のように反論している;

「しかし、おそらく望ましいものも沢山見るのだ。さらに言えば、望まぬものにしばしば行き当たるのは、青年だって同じだ」また彼はこうも言っている。「・・・老年を守る最もふさわしい武器は、諸々の徳を身につけて実践することだ。・・・徳は、その人の末期においてさえ、その人を捨て去ることがない・・・」

「少年老い易く学なり難し、一寸の光陰軽んずべからず。未だ覚めず池塘春草ちとうしゅんそうの夢。階前の梧葉已ごようすで秋声しゅうせい(池の堤に春の若草の萌えるような楽しい夢がまだ覚めやらぬうちに、すでにきざはしの前の桐の葉に秋風が吹いてきた)――朱憙
だが、冬来たりなば春遠からじとも言う。しかし、その前にせっかくの冬を満喫しょう。
 

2008年12月05日(金曜日)更新

ユーモアクラブのためになるユーモア講座 108

 今年の流行語大賞には多大な関心を持っていたし、例の「あなたとは違うんです」がダントツで大賞になるものと思っていた。なにしろ、断固とした差別化、強烈な個性の主張、どこを取っても凡人にはとうてい口にできる言葉ではないからだ。しかも、受賞を辞退したというのが、またなんとも憎い。大賞以下に甘んじることを、プライドが許さなかったのだろう。終始一貫、まことに筋道が通っていてさすがだ。

 しかし、全国に放映されているテレビの前で、あのセリフを投げかけられた記者の立場から考えてみると、ご本人は拘泥などしていないだろうが、当時首相であろうとあの言い草は、横柄とも無作法とも取れなくもない。

 横柄とは、「自分自身以外の他の人びとを軽蔑することである」無作法とは、「・・・実害を及ぼすわけではないが、嫌な思いを人にあたえる態度である」いずれも、ギリシャの哲学者アリストテレス愛弟子テオプラストスの定義だから、ひとまず信頼してもよかろう。(テオプラストス著、森 進一訳、「人さまざま」)

 あるいは、彼流に定義させれば、へそ曲がりと言えるかも知れない。「へそ曲がりとは、言葉使いの点で、態度の無礼なことである」あの言葉には、まさにこの定義がぴったり当てはまるようだ。さすが、慧眼の選考委員の諸氏がそのあたりを見抜いて、大賞から外したのかもしれない。
ところで、針のむしろであったろう座を退しりぞかれた前首相が、トップテンであろうと受賞なされば、ユーモアクラブ特別賞でも設けて表彰したいところだったのにと残念な気もする。
 

2008年11月28日(金曜日)更新

ユーモアクラブのためになるユーモア講座 107

 あまり楽しい話題のない昨今、せめて心のゆとりを、そう、ユーモア精神を失いたくないものだ。これはイッソプ物語に出てくるお話。タイトルは後知恵あとぢえでもしておきましょう。
「窓際のかごの鳥は、いつも夜にさえずっていた。その鳴き声を聞きつけて飛んできたコウモリが、どうして昼間は鳴かず夜ばかり歌うのだと訊ねた。すると、その鳥はこれには深い訳があるのだと答えた。かつて、日中に囀っていて捕らえられたので、それで一つ利口になったのです。するとコウモリが指摘した。“いまさら用心してもなんの役にも立たない。捕らえられる前に用心すべきだった”」

 今度はどこにでもありそうな、診察室での問診もんしん風景。患者曰く、どうも体調が悪いんです。そこで、医者が
「二、三お尋ねします。だいぶ呑むのですか?」
「アルコールですか?」患者は訊いた。「一滴もやりません」
「煙草はいかがです?」
「吸ったことなどありません。煙草は体に悪い。喫煙には断じて反対です」
「はあ、なるほど。あのほうはお盛んなのですか?」
「とんでもない」患者は答えた。「セックスは罪悪です」
 医者は黙りこみ、患者をしげしげと見つめてから訊いた。「ところで、頭痛はしませんか?」
「そうなんです」と患者は答えた。「頭痛がひどいんです」
 あなたの診断は? 欲求不満。少し酒でも飲むよう勧めたほうががよさそうだ。
 

2008年11月21日(金曜日)更新

ユーモアクラブのためになるユーモア講座 106

 このところ、全国的に初雪が降っているようだ。私が住む町でも、夜中に二度目の雪がぱらついた。日中の最高温度〇度、最低気温マイナス六度。いよいよ、冬将軍の本格的到来だ。しかし昔に較べれば、冬といってもずいぶん暖かくなったような気がする。私が旧満州のハルビン市から北海道の帯広市に引き揚げてきた当座には、五〇年以上前の話で恐縮だが、零下三〇度以下になることが一冬のうちに何度もあった。昨今では、零下二〇度になることすら滅多にない。ハルビンでは零下三五度を越すことがたびたびあり、校舎の入り口では若い女の先生たちが登校したわれわれ児童を凍傷から護るために、顔や手の指を冷たいといっても外気よりずっと温かい水で、丹念に揉んでくれたものだった。

 話は飛ぶが、先日、ハルビンに行ってきた友達から同市の最近の写真をたくさんもらった。どの写真にも高層ビルが林立していて、幼かった私の記憶にさえ残っていた当時の代表的な建物は一様に、ビルの遥か下のほうに肩身を狭くして立っていた。人口は九〇〇万とも九五〇万ともいわれている。地球温暖化が問題になっている折から、そこから排出され温室効果ガスの量は膨大なものになるだろうと考え込んだ。その量を中国全土、日本全土、さらには地球全体に広げるなら、北極の海氷が著しく融解しているのも納得できる。暖冬傾向を喜んでばかりいられない。

 地質学的年代で考えるなら、地球はいろいろな変貌を遂げてきたのだし、これからも変貌を続けるだろう。近視眼的に騒ぎたてるのはいかがなものかと思うが、地球は人類抜きでも地球でありうるが、われわれは地球無しでは生存できない。発想の逆転が必要なようだ。主人公は地球なのだ。
 
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