ユーモアクラブの
ためになるユーモア講座

古今東西あまたの名言、格言、人生訓など「ユーモアの宝典」を連続紹介

 
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ダーク・ヒグマーノ
 (翻訳者 中山 善之)
1935年、北海道生まれ。

慶應義塾大学卒業。外資系メデァ日本支社勤務後、翻訳家に。乱読家で東西の本は勿論中国古典なども好む。
訳書としては世界中でベストセラーになっているクライブ・カッスラー著「ダーク・ピット」シリーズ全20巻(日本語版計32冊、新潮社文庫)。
ヤノフ著「原初からの叫び」(講談社)。ムーディ・jr著「かいまみた死後の世界」(評論社)など多数。
近頃は山奥での魚釣り、たまにはゴルフもするが一番は大酒のみ。

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2008年11月14日(金曜日)更新

ユーモアクラブのためになるユーモア講座 105

 最近は社会の木鐸ぼくたくたる選良、大臣はもとより相談役、空幕長などが、我勝われがちに他の追随を許さないすこぶる独創的な意見を惜しげもなく披露してくださり、さすがなものだと感心している国民も多いのではなかろうか。年配者の言葉は、古来、型にはまっていて面白くないと相場が決まっているものだが、戦後生まれのお年寄りたちは、戦後レジュームやらの自由な教育を受けて育ったせいか、おっしゃることがすこぶる自己中心的でかつ恥知らずだ。この不景気な世の中に笑いを吹き込んでやろうという、ご高配のしからしむるところかもしれない。だが、しかし――
 
「・・・彼らの言葉はとにかく私をしてほとんど私自身をさえ忘れさせる程であった。それほどの説得力を以って彼らは語ったのである。それにもかかわらず彼らはひと言の真実をも語らなかったといってよかろう

「・・・私は、最も令名ある人々はほとんどすべて最も智見を欠き、これに反して尊敬せらるること少き他の人々がむしろ智見において優れていることを認めた」
上掲の二つの文章は熟読玩味に値する。出典はプラトン著、久保 勉訳の「ソクラテスの弁明」(岩波文庫)

其のす所を視、其のる所を観、其のやすんずる所を察すれば、人いずくんぞかくさんや」人の行い観察し、その動機を調べ、その行いに満足しているかどうか探れば、その人物の実体が必ずや明らかになる(論語)。さもありなん。
 

2008年11月07日(金曜日)更新

ユーモアクラブのためになるユーモア講座 104

 もう十日ほど前になるが、所用で札幌に行ってきた。折からちょうど紅葉の時期で、大通公園の樹木がきれいに色づいていた。とりわけ、落葉松からまつの絶妙な黄色と緑色のコントラストには目を奪われた。途中、車窓から眺めた丘の連なりや山並がよそおっているとりどりの晩秋のいろどりりは、心をなごませてくれた。明日は初雪が降りそうだという予想だったので、楽しみにして朝起きたのだが、雪は舞っていなかった。その翌日、帰りの車窓から空を見上げると、一面に分厚い黒雲が覆っていて今にも雪が降りそうな気配だったが、窓ガラスを叩いたのは雨だった。列車が進行していくうちに、意外や初冬の雨空になんとも美しい大きな虹が現われた。

 その鮮烈な色彩に、「冬の花火」という言葉が頭に浮かんだ。たしか太宰治の短編に同名の作品があった。彼の作品のタイトルはどれも実にしゃれている。そういえば、今年は彼の生誕百年に当たるらしい。ほかに、歌集「乳房喪失」で知られる女流歌人の中条ふみ子をモデルにした渡辺淳一作の「冬の花火」もある。

 やがて列車が山中に入ると、やはり雨は雪に変わり、山並の頂が常緑樹に雪をいただいて銀鼠ぎんねず色に染められていた。さらに列車は走り国境の長いトンネルを抜けると空は一変、あくまでも澄みわたり、点在する綿毛のような雲がまぶしいほど輝いていた。窓外そうがいには素晴らしい自然の移り変わりが繰り広げられているのに、いつものことながら、車中の大部分の乗客は眠っているか週刊誌やスポーツ紙などを読み耽っていた。“宝の持ち腐れ”の感なきにもあらず。“面白し雪にやならん冬の雨”芭蕉
 

2008年10月31日(金曜日)更新

ユーモアクラブのためになるユーモア講座 103

 岡山の作り酒屋の一人息子に生まれたから酒好きになったわけではないだろうが、作家の内田百間は,「我が酒歴」の中で一年間に自分の飲んだ酒の量を、客にきょうしたり自分が外で頂戴した分などを勘案した末に、一升瓶でおおよそ百七十、ないし八十本と見当をつけている。酒は節季せっき払いだったので、掛け買い帳から割り出せたそうだが、これだと一日あたり五合近く喉に流し込んでいたことになる。人様の酒量をはたのものがどうこう云う筋合いは毛頭ないが、相当行けた口のようだ。

 そこで気になるのはさかなだが、百?先生は河豚ふぐにはあまり感心していない。「河豚」の中で、“・・・風味がないので、余りうまいとは思わなかった”と書いている。いっぽう、北大路きたおおじ魯山人ろさんじんは「魯山人味道みどう」で河豚の美味さを味のなさにあるとして、“・・・無味の味とでも言おうか、その味そのものが、底知れず深く調和が取れて、しかも、その背後に無限の展開性を持っている・・・”と絶賛している。私も河豚は、吉田健一さんのセリフではないが、なんともかとも美味しい、ものだと思っている。

 マグロなどと同様、河豚も昔は庶民の食べ物だったようで、落語の「らくだ」に見られるとおりだ。乱暴で嫌われ者だった屑屋のらくだが、自分でさばいた河豚を酒の肴にして毒にあたって命を落としてからの顛末(てんまつ)が面白おかしく語られている。かつて武士は河豚とコノシロを絶対食べなかっといわれている。河豚で命を落としたら士道心得不充分の廉かどによってお家断絶の憂き目を見かねなかったし、“この城”を食うに通じるので縁起を担いだようだ。         
 残念ながら、昨今では高級魚なので、そう気安く店へ足を運ぶわけにいかない。
 

2008年10月24日(金曜日)更新

ユ−モアクラブのためになるユ−モア講座 102

 朝夕めっきり涼しいと言うか、所によっては寒いくらいの季節になりなり、左党さとうにはこたえられない時期になった。とっさに浮かぶのが、若山牧水の“白玉の歯にしみわたる秋の夜の、酒は静かに呑むべかりける”秋が深まり山が色づくころには、さまざまなキノコなど山菜に恵まれ、海からは美味うまい魚が上がってくる。秋もまた、酒飲みにはよい季節だ。新鮮な山海の珍味を友として、静かに酒を飲みたいところだが、果たしてどうか自信がない。実は今夜も飲み会があるのだが、そもそも飲み会自体が酒を静かに味わう雰囲気にはじめからほど遠い。人さまざまで、酒癖もさまざまだ。

 落語のほうにも、酒飲みの百態ひゃくたいがよく登場する。志ん生がよく演じた“親子酒”の中の親子など、少なくともはたから見ている限りでは憎めない酒飲みだ。親父の酔眼には跡取り息子の顔が七つにも八つにも見える。そこで親父は、“・・・そんなに顔のどっさり見えるやつ(せがれ)には、・・・この財産しんしょうはわたせない”すると、外で酒をたっぷり頂いてこれまた酔っている息子曰く、“こんなぐるぐる廻る家をもらってもしょうがねい”

 これまた名人だった桂文楽の演目の一つに、“夢の酒”というすこぶる楽しい話がある。軒先で雨宿りをしていたある大店おおだなの若旦那が、その住まいのまことに美しい顔見知りのご婦人に招じ入れられる。お酒を頂戴したうえに、ご婦人と一緒に床に入ることになる。むろん夢の中で。夢を引き継いだ親父さんもお酒を勧められるが、燗がつくのを待っているうちに夢が覚め、言ったセリフが“冷にしておけばよかった”酒飲みの妄想や意地汚いじきたなさがよく出ていてなんとも面白い。
 

2008年10月17日(金曜日)更新

ユーモアクラブのためになるユーモア講座 101

 孔子様の、“七十にして、心の欲するところに従えど、矩を踰えず”というお教えは論語読みならぬ私も、あまりに有名なのでいつの間にか聞き知っている。七十歳になってからは、自分の欲するままに言動を行なっても、のりすなわち規範からはずれることはない。“十五歳にして学に志し、三十にして立ち(礼を基盤にして精神と経済の両面で独立)、四十にして惑わず、五十にして天命を知った、孔子様とわが身とを引き比べるのはむろんおこの沙汰だが、厚かましい物言いを省みず言わせてもらえるなら、不肖ふしょう小生も最近はまさに矩をさなくなった。正確には、ご明察どおり、踰えらなくなったのだ。こちらは、たんに老け込んだだけのこと。生涯修業なさった方とうかうかと馬齢を重ねてきた凡夫との歴然たる差だ。しかし、あるがままに自分の身体や気力の衰えを素直に受け入れられる老齢もまんざら捨てたものではない。そこには歳相応の人生の味わいがある。

 “桐一葉 落ちて天下の秋を知る”まさに、枯葉の時候。そういえば、最近、枯葉マークとか言うご親切なシールまで登場。お役所仕事としては稀に見るお優しいお心配りで、国中の“高齢者”は随喜の涙を流して喜んでいることだろう。お隣から枯葉が舞いこんで迷惑だと、向こう三軒両隣の空気が険悪になっている例が頻発していらしいが、そうした人たちは長閑(のどか)な秋の日に静かに舞い散る枯葉の風情を楽しむ心の余裕すら持てずにいるのだろうか。そうした人の心情にうそ寒いものを感じる。近いうちに、バイオマスとして枯葉の恩恵を受けるようになる可能性もありうるのだが。“惻隠の心は仁の端なり”人を思いやる心―惻隠そくいんの心は、じん(慈しみ)の端緒である。
 この世の中、もう少し優しさがあってもよいのではなかろうか。
 
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