ユーモアクラブの
ためになるユーモア講座

古今東西あまたの名言、格言、人生訓など「ユーモアの宝典」を連続紹介

 
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ダーク・ヒグマーノ
 (翻訳者 中山 善之)
1935年、北海道生まれ。

慶應義塾大学卒業。外資系メデァ日本支社勤務後、翻訳家に。乱読家で東西の本は勿論中国古典なども好む。
訳書としては世界中でベストセラーになっているクライブ・カッスラー著「ダーク・ピット」シリーズ全20巻(日本語版計32冊、新潮社文庫)。
ヤノフ著「原初からの叫び」(講談社)。ムーディ・jr著「かいまみた死後の世界」(評論社)など多数。
近頃は山奥での魚釣り、たまにはゴルフもするが一番は大酒のみ。

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2008年09月05日(金曜日)更新

ユ−モアクラブのためになるユ−モア講座 95

 はや九月、秋かと感慨にふける間もなく、劈頭へきとうから“無責任台風”が吹き荒れたのには恐れ入った。昨今の政治家の程度の有様あようを如実に示したまたとない実物見本だろう。
 
 俗事はさておき、せっかくの秋を満喫したいものだ。「温泉の底にわが足見ゆ今朝けさの秋」(蕪村)おのれのことのように実感できる。同じ蕪村でもおもむきはいささか異なるが「かなしさや釣の糸くあきの風」水辺に立っている心地がする。“味覚の秋”、“芸術の秋”。あるいは、“錦繍きんしゅうの秋”。さらに“読書の秋”。まさに、“天高く馬肥ゆる秋”

 結構ずくめだが、本来“・・・馬肥ゆる秋”は、今日ほど太平楽な意味ではなかったようだ。出典はかの詩聖の祖父である杜審としんげんの五言律詩(五言八句)。「雲浄妖星落、秋高塞馬肥」(雲清くして妖星落ち、秋高くしてさいゆ。妖星は災害の兆きざしとして現われると信じられていた。塞馬は匈奴きょうどに備えて辺境に配備した馬群。実は、秋になると匈奴が作物を狙って襲ってくるので、守備軍は馬を太らせる必要に迫られたという厳しい現実を詠った詩であった。

 馬といえば、“無事ぶじこれ名馬めいば”この名言を吐いたのは、名作「父帰る」「忠直卿行状記」「真珠夫人」などを残した文豪にして、文芸春秋社を創立した菊池寛にほかならぬ。競馬に高じた大先生が、さんざん痛い思いをした末に開いた悟りか諦観ていかんか。“無事是貴人きじん”。「臨済禄」に記されている禅語を、彼がもじった名文句。貴人とは作為をもって禅語を行なわず。自然のままの境地にある人を指すそうだ。菊池先生がその境地に達したかどうかは不明。
 

2008年08月22日(金曜日)更新

ユーモアクラブのためになるユーモア講座 94

 今年の八月は、どちら様も心身ともにお疲れではないかと拝察している。いまだに胸痛む八月六日と九日の原爆投下。痛恨の十五日の敗戦の日。高校球児の甲子園での熱闘お盆休みの旅行、連日連夜の北京オリンッピックのTV観戦。加えて、太平戦争映画の特集の鑑賞。それに私は今年の八月の出来事に、“ソ連の反体制作家”アレクサンドル・イサーエヴィチ・ ソルジェニーツインの死去(八月三日)をつけ加えたい。

 三十数年前に、若い編集者の端くれだった私は、日本では後発のアメリカの出版社の支社で働いていた。なんとかして、ソルジェニーツインの作品の版権を取りたいと思ったが過去に実績がないので、取りつくルートがなかった。さまざまな情報源を探った結果、幸運にも「煉獄の中で」での版権を取得できたが、それからが大変だった。これはと思う専門家に翻訳をお願いしても、引き受けたい気持ちは山々だが、今後の仕事になにかと支障が生じかねないので辞退させてくれとつぎつぎに断られた。当時のソ連はまだ冷戦体制下にあり、ソルジェニーツインの作品は禁書だったのだから無理からぬことだった。それから二十年足らずでソ連は崩壊。まさに、時移り事去るだ。出典は「徒然草」の二十五段。

 “飛鳥川あすかがわの淵瀬つねならぬ世にしあれば、時移り、事去り、楽しび、悲しびきかいて、はなやかなりしあたりも人住まぬ野らとなり、変わらぬ住家すみか人改まりぬ。・・・”“すことひさしき者は飛ぶこと必ず高く、ひらくこと先なる者はしゃすることひとり早し
 久しく翼をおさめて飛ばない鳥は、ひとたび飛べば必ず高く飛び、早く開いた花は散ることも早い。人生もまたしかりか。
 

2008年08月15日(金曜日)更新

ユーモアクラブのためになるユーモア講座 93

 今日は敗戦の日にちなんで、昭和二十年(1945年)八月十五日から十六日にかけての私の一日あまりを再現する。場所は旧満州東北地方、現在の中国 黒龍江省こくりゅうこうしょう都ハルピン市松花江しょうかこうの対岸の工業地帯。小学四年生で夏休み中の私は、正午から天皇が国民にお話になられる重大な 玉音ぎょくおん放送があるから待機するように言われていた。
 正午。玉音放送。雑音がひどく途切れ途切れでなにをさとしておられるのか、私にはまるで理解できなかった。今回、六十三年ぶりに玉音放送を聞き前文を読む機会をえたが、例え明瞭に聞こえたとしても、あの歳の私には玉音の真意を理解することはとうてい無理だったし、当時の大人でも何割の人が正しく理解したかすこぶる疑問だ。
 数分後、路上で歓声。見回り中の日本人警官を 一寸いっすんだめしに惨殺して、中国人たちがときの声をあげたのだ。町中に彼らが押し出し、日本人の住宅を取り巻き、出て行けと脅しをかけ始めた。私の家の窓という窓も、威嚇する彼らの顔で埋めつくされた。一挙に押し入られたら、私たちの命はなかったろう。大の男はみんな兵隊に取られ、男子では小学校の五六年の生徒が一番歳上だったのだから。
 翌朝、日が昇るとともに家を放棄。まさに 居抜いぬき。着の身着のまま、近所の女子供が集結場所へ向かう。その途中で強盗の襲撃を受ける。取るものがなくて気の毒なぐらいだった。集会場所にどうにか逃げ込んだものの、暴徒に取り囲まれ銃弾を撃ちこまれ、死傷者が続発。青酸カリを与えられる。後年、映画やテレビで見るのとそっくり、赤い紙に包まれていた。最後には、日本人らしく立派に死ぬのだ、と命じられた。私は今夜死ぬのだと漫然と思った。特別の感慨はなかった。呆然自失の状態だったのだろう。
 

2008年08月08日(金曜日)更新

ユーモアクラブのためになるユーモア講座 92

 絶対にあり得ないことだが、仮に太平洋戦争に勝っていたら日本はどうなっていたろうと考えてみるのもまんざら無駄ではないだろう。戦争中の狂信的な神国しんこく日本信仰は頂点に達し、軍人にあらざれば人にあらずの気風はますます募り、一般庶民は自由に息をつくことすらはばかれるような世の中になったことだろう。数百万の尊い人命の代償として得た平和な日本社会を大事にしたいものだ。

 「・・・日本軍は苦戦であった。苦戦は当然だ。輸送がきわめて不充分だ。寒気と食糧難。これが疫病神のように憑いているのだから・・・常に大苦戦大困難。栄養失調。・・・草の根をさがして食い泥水をのみ骨と皮ばかりになって悲しい死に方をするものも少なからず・・・」(坂口安吾著「狂人遺書」)“寒気”を暑気と置き換えれば、豊臣秀吉が行なった朝鮮出兵の愚挙の結末が、太平洋戦争の際に南方でなくなった大勢の兵士の運命にほぼそっくり当てはまる。日本人はもとも戦争に不向きなのだ。それをよく自覚すべきなのだ。戦略を立てるのに不向きなのだから。

 なにより、考えに合理性が乏しく精神論が優先される。欲しがりません勝までは。これは戦時中に、窮乏に堪えることを国民に訴えた標語だが、兵士はもっと過酷な状態で戦いを強制されていた。兵站線へいたんせんが延びすぎて食べるものも銃弾もないまま山野に放り出されていたのだ。精神がたるんでいる。神国日本が負けるわけがない。愚かな神頼み。生身の人間に必要な条件の認識不足。などなど、いまもわれわれの中にこうした傾向が見られはしないか。時節柄、心静かに省みたいものだ。大きなお世話だろうが、一読をお勧めする。「日本はなぜ敗れるのか」(山本七平著)
 

2008年08月01日(金曜日)更新

ユーモアクラブのためになるユーモア講座 91

 七月は少し時間が出来たので、踝を傷めて休んでいた渓流釣りとゴルフを二年ぶりに再開した。渓流釣りの 釣果ちょうかは歩く距離に比例するといわれる通り、玉石の川ぶちを覚束ない足取りで蛇行する私の餌に情け深く食いついてくれる魚はごくわずかで、“ 脾肉ひにくの嘆”をかこち、駄馬の悲しみ味わった。“鮒釣りに始まって鮒釣り終わる”という言い伝えもあるようなので、素直にフナ釣りへの転向も考えたが、辛くも思いとどまった。もう少し足場のいい川を選ぶ道だってある。老け込むことを急ぐにはおよばない。これは諺でも何でもありません。私のたんなる独り言。

 ゴルフのほうは、空振りを繰り返すのではないかと内心案じていたが、それほどの醜態あるいは笑い話の種を振りまかないでなんとか済んだ。“ 自惚気うぬぼれけ 瘡気かさけは人並みな”ので、少し練習すれば結構いけるのではないかと思ったり“そうは問屋が卸さない”か、と迷ったり。まあ、身体のためだと思って、これからもなるべく出歩くことにした。

 早くも、今日からまた、私には気の思い八月。八月十五日は、私の第二の誕生日だ。玉音放送の終了とともに、私はこの世の現実にはじめて異郷の地で投げ出され、その直後から生死の 狭間はざまを翻弄された。むろん、日本人の多くが。“去る者は日日に疎し”人のことばかりでなく、いまは遠くなったあの当時の日々のことを忘れてはなるまいし、語り継がれるべきだろう。“前車のくつがえるは後車のいまし” 歴史から学べないものは、何ものからも学べない これは私の感慨。それはともかく、皆さま楽しい夏休みを。
 
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