ユーモアクラブの
ためになるユーモア講座

古今東西あまたの名言、格言、人生訓など「ユーモアの宝典」を連続紹介

 
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ダーク・ヒグマーノ
 (翻訳者 中山 善之)
1935年、北海道生まれ。

慶應義塾大学卒業。外資系メデァ日本支社勤務後、翻訳家に。乱読家で東西の本は勿論中国古典なども好む。
訳書としては世界中でベストセラーになっているクライブ・カッスラー著「ダーク・ピット」シリーズ全20巻(日本語版計32冊、新潮社文庫)。
ヤノフ著「原初からの叫び」(講談社)。ムーディ・jr著「かいまみた死後の世界」(評論社)など多数。
近頃は山奥での魚釣り、たまにはゴルフもするが一番は大酒のみ。

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2008年01月25日(金曜日)更新

ユーモアクラブのためになるユーモア講座 65

 今回は、新春を寿ことほぎ“情けは人のためならず”を地でいく人情噺を一席。断っておくが、この諺が言わんとしているのは、人に対する親切な行いは、いずれよいむくいをもたらしてくれる、人には親切にしなさい、という教え。人に情けをかけるのは甘やかすことになり、本人のためにならない、とする解釈は大変に現代的であるし、非情な味も捨てがたいが誤用。しかし、この誤用のほうが後世、どうも幅を利かすような予感がする

 六代目三遊亭圓生えんしょうがよく高座にかけた噺に「文七ぶんしち元結もとゆい」がある。むかしの元結もとゆいは、髪の毛を束ねるわらや麻、あるいはほそぬのを指す。文七は丈夫な紙で元結を作り出し、たいそう評判になり繁盛する。しかしそれは、後日の話。

 左官屋(壁塗り業)の親方長兵衛は、腕はすこぶるいいが博打ばくち狂いで貧乏暮らし。女房は身につける下着すら質に入れたために―そんな代物が質草になるものか分かりかねるが―共用の便所にさえ人目をはばかっていきかねているほど。見かねた一人娘は思い余って苦界に身を沈める覚悟をして、父親が出入りさせてもらっている吉原の大店おおだな女将おかみに泣きつく。今度の年の暮れまでとりあえず娘は預かり、父親が借金を払って仕事に出かけられるように五〇両わたす。ただし、暮に金を返してくれなければ、そのときは客を取らせるよ。
 五〇両押し頂いての帰り道、大川端で今にも一人の若い男が身投げをしようとしている。親方は力ずくでその若者に思いとどまらせ、わけを聞くと集金した五〇両をなくしてしまったのだという返事。思い悩んだあげくに、娘を売った金をそっくりわたして逃げ帰ってくる。翌朝、命を助けられた文七が鼈甲べっこう屋の主人に伴われてお礼に現われ、鼈甲屋と親方は親類同様になり、娘は文七の嫁になって幸せに暮らしたという一席。
 

2008年01月18日(金曜日)更新

ユーモアクラブのためになるユーモア講座 64

 暮れから新年にかけてなにかと飲む機会が多く、酒飲みの口実ではないが、なかなかよい社会勉強になった。ひごろは落ち着いた感じの、シャンソンやホークソングなどを静かに流している店に、珍しくかなり客が入っていた。れっきとした、紳士淑女のいわゆる“合コン”らしく、数グループが数箇所に分かれていた。カウンターにいた私は、間もなくすこぶる居心地の悪さを感じた。何しろ、高声こうせい。話し声が恐ろしく大きい。まるでよそのグループの騒々しさに負けまいとしているようだ。たがいに競いあわんばかりまさしく、傍若無人ぼうじゃくぶじん。念のため。まるでそばに人がいないかのような、自分勝手な振る舞い。

 その合間に、決まってどっと笑い声が起こる。これが、哄笑こうしょう。大きな声で笑うこと。グループごとに、いっせいにはじけたようにけたたましく笑う。あまりにも、取ってつけたような笑いに、私は薄気味悪さをおぼえはじめた。そうまでして、仲間意識を示さなくてならないのかと、いらざることを考えたのだ。それほどまでに、一体感を求めているのだろうか。この自由な時代に、そんなに孤独なのだろうか。そうまでして、帰属意識を示さなくてはならないのか。

 どうも私たちは、昔から数を頼み、勢いづく悪い癖があるようだ。封建時代の悲しい遺風か、それとも農耕民族のならい性なのか。余計なことを考えているうちに酔い心地もさめて、老兵は蹌踉そうろうと家路に着いた。とりわけ若い人には、群れに没しない強烈な個性を持ってもらいたいものだ。
 

2008年01月11日(金曜日)更新

ユーモアクラブのためになるユーモア講座 63

 遅まきながら、どちら様も新年明けましてお目でとうございます。私などは古い世代なので、満年齢制は合理的だが年が改まった感慨を薄めているようであまり感心しない。一夜明ければ、新玉の年。万事、けじめが薄れた大本はこのあたりにあるような気がする。
 “是がまあついのすみかか雪五尺”で、“ともかくもあなたまかせのとしの暮”を切り抜け、新年を迎えれば、“目出度さもちゅう位なりおらが春” “ちゅう位”がなんとも奥ゆかしく、人生を達観している感じがしみじみと伝わってくる。ご存知の小林一茶。

 これは、いつの時期をうたった詩うたか知らないが、たまたま目に留まったいい句。“酒粕さけかすにほどよき焦げ目春の雪”昔の正月の雰囲気がよく出ている楽しい句だと無手勝流で決めこんでいる。そういえば、酒には良くも悪くも年中お世話になっているが、酒粕には久しくお目にかかっていない。懐かしい。

 昨年を象徴する言葉として、“偽“という言葉が選ばれたが今年はどんな言葉が浮上するやら。ところで、”私たちはみな、なんどもしくじりを犯す。もしも言葉で失敗しない人がいたら、その人は自分の全身おも制御できる完璧な人だ“(We all stumble many times.If anyone does not stumble in word,this one is a perfect man able to bridle also his whole body)他人事ひとごとではなく、よく心したいものだ。出典はあえて伏せておく。熟読じゅくどく玩味がんみする価値がありそうだ。
 

2007年12月28日(金曜日)更新

ユーモアクラブのためになるユーモア講座 62

 今年も、良くも悪くもいよいよ終わり。来る年はいわゆる年だそうで、ネズミにちなんだ諺やその類をすこし。干支えとのことは不案内なので、はなはだ怪しいものだが、鼠算式という言葉から連想しても、来年は豊穣の歳ということで縁起が良いのではないだろうか。

 ところでネズミに関してすぐ思い出される諺は、“大山鳴動してネズミ一匹”(The mountains have brought forth a mouse)大騒ぎしたのに、空騒ぎに終わった。どうも諺で見るかぎり、ネズミはいささか軽く見られているようだ。
 “ネズミ退治に家を焼くな”(Burn not your house to frighten the mouse away)たかがネズミを追い出すために、大げさな手段を取るなというほどの意味か。過激に走るなの戒め。
 “穴を一つしか持たないネズミはすぐ捕まる”(The rat that has but one hole is quickly taken)これは、危険分散をしておけとのお教え。Mouseは一般に小型のイエネズミ、ratクマネズミやドブネズミを指す。
 よく使われる慣用句では、“play cat and mouse”なぶりものにする。
drunk as a mouse”へべれけに酔う。“like a drowned mouse”みじめ、あるいは無様(ぶざま)な姿。年末年始に、行ける口は楽しい酒で終わりますように。みなさま良いお年を。
 

2007年12月21日(金曜日)更新

ユーモアクラブのためになるユ−モア講座 61

 また新年が巡ってきて、長いようでもあり短くも感じられる人生航路の次のページが開かれる。来年は年だそうですが、どんな一年になりますか。
 “人は山につまづくことくしててつに躓く”垤はアリ塚、小高き丘の意味。(人莫躓干山而躓干垤) 
 かんは他人の権利に干渉し、それを犯すという意味の干犯かんぱんと同義。出典は「古詩源」。小さなことをおろそかにして、大事に失敗することなかれ、という心すべき戒め。
 “人生は朝露ちょうろたとえ、きょせいちゅうけん多し”(人生喩朝露 居世多屯) 屯もも困難を意味する。人の一生はあさつゆのようにはかないが、生きてある間にはいろいろな困難が起こるものだ。それが人生か? 出典は同じく「古詩源」
 似たような感慨に、“人生にはこんたいなく、ひょうとして陌上はくじょうちりの如し”根蔕は根とへた。物事の根源の意。陌上の佰はあぜ道、街路の意。人生には長く生きつづける根がない。人の生涯は路上の塵芥ちりあくたが飄々と風に舞うに等しい。出典は同上。
 “うらやむ、君が酒あって便すなわち酔うことを。羨む、君がぜになくして能くうれえざることを”(羨君有酒能便酔、羨君無銭能不憂) 君は逆境にあっても、酒さえあれば気持ちよく酔えるし、金がなくても少しも心配しないでいられる。羨ましい人だ。「唐詩選」より。こんな心境で、日々を過ごしたいものだ。
 
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