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2007年12月14日(金曜日)更新
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ユーモアクラブのためになるユ−モア講座 60
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何回か前に、「もしも別の事態が起こったなら」(IF IT HAD HAPPENED OTHRWAISE)という本の一部内容を紹介したが、その一章、“もしも、シェクスピアの作品を実際に書いたのはベイコンであることが1930年に発見されたなら”はなかなか面白かった。
アメリカのある学者が発表した、ベイコンの住居跡を掘り返して、シェクスピア=フランシス・ベイコン説の確証を得たという記事が1930年の四月三日付けのロンドン中の新聞に大々的に掲載された。その記事に対しイギリスの大作家や詩人、あるいは兼劇作家たちは、シェクスピアだけは別格らしく、まるで自分の偉大な先祖にけちをつけられでもしたように、頭から湯気を上げて憤慨している大人の喧嘩の趣がある。
“きっと、とんでもない間違いが、どっかにあるに決まっている”と息巻いているのは、とうに“不惑”を越えた当時63歳の小説家兼劇作家で、「フォーサイト家物語」で知られノーベル賞受賞者でもあるジョン・ゴールズワージー。
“何者かがそんな絵空事のような反動的 御託(を並べたからって、いったいなんだというのだ”(What does it matter who wrote such romantic and reactionary rubbish?) こう切り捨てたのは皮肉屋で有名な劇作家、批評家、小説家で、74歳だったバーナード・ショーはいきり立っている。
“もしも連中がベイコン説を言い張るなら、お灸をすえてやる”(If they insist on Bacon we shall give them Beans) give somebody beans は叱りつける、罰するほどの意味。この際のthey は敵愾心のこもったアメリカの連中ぐらいの意味でしょう。発言者は“ブラウン神父”もので有名な作家、詩人、戯曲者のG.K・チェスタトンで当時56歳。ベイコンは、シェクスピアとほぼ同時代人であった博学で知られるイギリスの哲学者、古典学者、法律家。
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2007年12月07日(金曜日)更新
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ユーモアクラブのためになるユーモア講座 59
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最近は聞いたことがないが、以前には”桃太郎”という落語が良く演目に取り上げられていた。“柳亭痴楽はいい男”という振りで始まる「痴楽の綴方教室」や「恋の山手線」で落語界に颯爽と登場して爆発的な人気者となった“破壊された顔”の持ち主四代目柳亭痴楽も実に楽しく聞かせてくれた。親が昔話などを話し聞かせて子供を寝かしつける習慣は、今ではまれなようだ。しかしこのところ、国語力の低下や情操教育の必要性から、物語を読み聞かせる重要性が大きく取り上げられている。それもあって、“桃太郎”を思い出した。
お伽噺の“桃太郎”は、“昔々、あるところにお爺さんとお婆さんが住んでいました。お爺さんは山に柴かりに、お婆さんは川に洗濯へ・・・。お婆さんが洗濯をしていると大きな桃が流れてきて・・・”その桃から丸々と太った男の子が生まれ、長じて鬼が島へ出かけ、サル、キジ、イヌの協力を得て見事鬼を退治して帰ってきて故郷に錦を飾る。目出度しめでたし。子供はすやすやと眠りについた、となるはずだが、落語に登場するケン坊は、父親の無知ぶりにばかばかしくなって眠気が失せてしまう。
そこで、ケン坊はお伽噺の持つ意味合いを噛んで含めるように説明して聞かせる。“昔々、あるところ”というのは時代や場所を限定せず、噺が広く通用するための配慮である。爺さんが山へ行くのは、父親の恩は山より高いとの喩え。爺さんにしたのは、父親では息苦しいから。“桃から・・・生まれた云々”は、子供は天からの授かり物という教え。息子に縷々説明されて、親父はしきりに感心して聞いているうちに眠り込む。万事この世の中、和気藹々であって欲しいものだ。お後がよろしいようで・・・。
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2007年11月30日(金曜日)更新
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ユーモアクラブのためになるユーモア講座 58
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いよいよ12月。師走。この語源の由来はいろいろあるらしいが、先生も金策に駆けずり回る月という俗説が面白い。裏長屋で読み書きを教えている、尾羽打ち枯らした寺小屋の先生などが頭に浮かぶが、れっきとした二つの大学の教授をしながら借金をしに走り回る先生もいた。内田百間先生は暮の借金払いに、まずタクシーと時間借りの交渉をして値段を決めると、貸してもらえそうな先を順に訊ねる。しかし、なにぶんにも間が悪すぎる。大晦日間近になって飛び出していくものだから、相手も同様になにかと忙しく留守だったり、すでにお金は出払った後だったりして、二三日がかりの金策は見事に失敗する。
大晦日の夜にくたびれ果てて帰ってくると、こんなに駆け回らなければタクシー代だけでも残り、こまごました支払いは済まされたのに、と奥さんに言われて百間先生も納得。借金しに、タクシーを乗り回すあたりが、なんともユニークだ。
金にうらみのある方は、それこそ多くいるわけで、“借りがあるそうで御慶に念が入り”、“ひどい借り春めきながら冴へかえり”はたまた、“元旦に女の歩くひどい用”というようなことになる。諺の“金が物を言う”、は英語では文字通りに、“Money talks”そこで、あちらではこんなジョークが生まれている。“金は物を言うかもしれないが、声をかけてもまったく耳を化してくれないことにあなたはお気づきか”。“かつて金は物を言ったが、その後囁くようになり、いまや沈黙に等しい”(Long ago money talked−then it whispered−now it‘s almost silent)今は金が手元不如意と解しては、うがちすぎか。
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2007年11月16日(金曜日)更新
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ユーモアクラブのためになるユーモア講座 57
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まさに晩秋。北国では、初雪の便りもちらほら。ふと芭蕉の名句が思い出される。“秋ふかし隣はなにをする人ぞ”。 “此道や行人 |
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2007年11月09日(金曜日)更新
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ユーモアクラブのためになるユーモア講座 56
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“ええ、毎度のことながらばかばかしいお話でご機嫌を伺います”などと講座に上がった落語家は開口一番挨拶代わりに口にするが、この世には毎日飽きもせずよくもまあばかばかしいというか呆れるようなことが起こるものだ。今回の騒動などは、客から題を三つ出してもらって、落語家が即席で面白おかしい話に仕上げる三さん題だい噺ばなしにうってつけのようだ。三つの題は、一に“老害”、二に“茶番”、三に“三日坊主”だろうか。あるいは、“密室政治”。“談合”も有力な候補だ。
老害とは年寄りがしゃしゃり出て、周囲にいらざる迷惑を及ぼすこと。幕末の鎖国か開国か国運のかかった重大な時期には、老害のために大勢の人命まで失われている。一国の政治を自分たちの思惑通りに操作しようと謀はかるとは、飛んだ思い上がりだ。厳しく糾弾されるべきは、黒幕の老人たちだろう。茶番。手元の辞書では、卑俗な振る舞い。加えて、茶番狂言。ありあわせの品物を材料として、身振り手振りで滑稽なことを演じて、その場の興をうながす狂言。三日坊主は、文字通りそのもの。主権者たる国民は、油断していられませんぞ。知らぬうちに、国の方向を捻じ曲げられかねない。何事にも、用心が肝要か。
なんとなく、“烏なき里のこうもり”とか、“魑魅ちみ魍魎もうりょう”といった言葉が頭に浮かんでくる。前者は、立派な人物がいないと、能無しが大きな顔をする、いうほどの意味だろうか。後者は、山中の怪物と水中の怪物。種々の妖怪(ようかい)変化(へんげ)の意。明るい話題が欲しいものだ。
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