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2007年07月13日(金曜日)更新
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ユーモアクラブのためになるユーモア講座 40
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最近はたいへん便利な世の中で、大きなスーパーでも行けば毎日の生活に必要なものはたいてい揃っているし、通信販売で珍しい品物を居ながらに取り寄せることも簡単にできる。まさに、サービス全盛時代だ。しかし、サービスにありつくためには金が要る。われわれ現代人は生活のほぼ全部を、他人様のサービスに依存して暮らしている。したがって、お金がないと一日も暮らしていけないことになる。自立した生活からかけ離れるほど、生活の基盤は危うくなる。国家も同様。頼りは金だけになる。拝金主義がはびこるのも自然の勢いか。
しかし、「金が敵」の世の中は昔も同様だったらしい。「金さえあれば飛ぶ鳥も落ちる」英語で言うなら、「Money talks」文字通り、「金が物を言う」「金持ち喧嘩せず」というのもある。「金と塵は積もるほど汚い」まるで貧乏人の負け惜しみのような諺もある。それで思い出したが、貧乏を当節ではとくに軽蔑する傾向が強いらしい。どの道、さほどの違いはないだろうに。“清貧”という素晴らしい言葉を思い出したいものだ。もっとも、「清貧に甘んじる」には、ある種の哲学が必要だ。それがあるかないか、それが問題だ。まるでハムレットの台詞みたいになってしまった。
「金を取るの時、人を見ず」こんな真似はしたくないものだ。「金銭の盲愛は、あらゆる悪の大本」(The love of money is the root of all evil)という教えもある。暮らしにくい世の中であることは確かだが、マイペースで生きたいものだ。
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2007年07月06日(金曜日)更新
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ユーモアクラブのためになるユーモア講座 39
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先日、遠来の客と久しぶりで緑濃い某国立公園めぐりをしてきた。ひそかに、後日の魚釣りに備えて何本もある川の下見も兼ねていたのだが、ご他聞にもれず水不足で魚もなにかと不自由をしていることだろうと思った。二度ばかりまとまった雨が降らないと、魚は上流に上って来そうにない。当分釣りはだめだと悔やんでいるうちに、久しく聞いていない楽しい落語「野ざらし」を思い出した。向島の土手下で、隠居さんが魚釣りをしていたが一匹も釣れない。日暮れ時になり、寺の鐘が陰にこもってゴーン。家路に着いた隠居の足許に一個のされこうべが転がっていた。回向に酒をかけて帰ってくると、その夜中に回向のお礼だといって若い女が現われて、隠居さんの身体をもんでくれる。その話を聞き出した八っあん、翌日朝から女を釣るのだと餌もつけずに釣り糸を振り回し、周囲の魚釣りに迷惑を掛ける。三遊亭円遊の名調子を聞くと、梅雨のくさくさした気分など吹っ飛ぶこと請け合いだ。
ところで帰りに緑深い露天風呂で汗を流したのだが、一匹のかなり立派なトンボが湯船の縁から離れないので、風呂好きのトンボなんているのかなどと友人たちと冗談を言ったのだが、ひょっとしたら誰かの生まれ変わりかも。
“海には魚が一杯いる”という諺がある。チャンスはたくさんある、ほどの意味でしょうか。英語では、There are plenty more fish in the sea.この more がキーワード。The best fish swims near the bottom.いちばん立派な魚は、底近くを泳ぐ。やはり、もう少し水量が欲しい。このことわざの教訓――簡単に成果はがらない。
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2007年07月02日(月曜日)更新
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ユーモアクラブのためになるユーモア講座 38
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六代三遊亭園生が得意とした噺の一つに、“大山詣り”がある。大山は神奈川県中部に位置する山の名前で、江戸中期に大山参りがたいそう流行り落語の題材にまでなった。江戸からは近いので四、五泊の信心と物見遊山半分の旅だったらしく、参詣した翌日は藤沢に泊まり飲めや歌への大騒ぎになったようだ。落語のほうでは、酒癖が悪く同行の仲間に迷惑を掛けた者がいたので、今年もそういう不心得者が出たら髷を落として丸坊主にしてしまうという約束事ができる。やはりその年も、酒癖の悪いのが大酒を食らって大暴れをするあたりから、話は佳境に入る。
同じ江戸時代だが、末期といっても幕府倒壊直前の慶応三年(1867年)には、“ええじゃないか”と老若男女が卑猥な歌をうたいながら通りを練り歩き、ときには富豪の家に押し入って金品などを強要する騒ぎが、近畿、東海、江戸にはじまり、全国各地に広がっていった。背景も内容もかなり違うが、この二つには共通点が一つある。どちらも俄かブームで、突如湧きあがり突然消え失せてしまっている。
先日、ドナルド・キーン著 角地幸男訳の「明治天皇」(新潮文庫)を読んでいたら、明治初期のある政治家が、日本人は付和雷同が強すぎると嘆いているくだりがあった。それでいろいろ考えてみると、わが国はいつも一種のブームで動いてきているのではないかと思えてきた。上記の話はそのほんの一例。最近では、他愛はないが“なんとか王子”ブーム。太平洋戦争中の官製ブーム、“欲しがりません勝つまでは”、“一億一心火の玉だ”よりずっとましだが。
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2007年06月22日(金曜日)更新
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ユーモアクラブのためになるユーモア講座 37
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早いもので、六月も残すところ後わずかになりますが、一日の解禁日を待ちかねて釣果を楽しんだ太公望もたくさん居られることでしょう。北の一部では、七月一日が解禁日のようですが。私も釣りは大好きで、ときおり行きますが、解禁日がある河川は放流をしているということなのでしょう。私は解禁日などない山奥の小川での釣りが好きだ。山菜取りに忙しい人も多いようだが、私は逃げも隠れもしない山菜取りより、逃げたり外れたりする魚を追うほうが性に合っている。魚釣りと山菜取りの二派に、何が分けるのだろう。
あるとき、山菜取りの人たちに同行した私は、傍らに湧き水のように澄んでいるが幅が三〇センチほどしかない細い流れがともかくあったので糸をたれたら、さっそく魚信があった。感激しましたね、自然は健在なりと。そのたった一匹の一二、三センチほどの山女は、渓流の女王にふさわしくすこぶる美しかった。なんといっても、純然たる天然ものだから。日頃のストレスなど、いっぺんに吹き飛びましたね。
釣り好きで思い出されるものに、モーパッサンの短編“あな”(Le trou)がある。ご存知の方も多いだろうが、青柳瑞穂訳の新潮文庫版では銀白魚釣りの穴場を二組の夫婦が争い、挙句の果てに片方の親父が深みにはまって死んでしまい、もう一方の親父が傷害致死の嫌疑で裁判に掛けられるという、なんとも滑稽で馬鹿らしい話だが、病膏肓の同好の士は身につまされるところのある名作だ。
魚釣りにしろ山菜取りにしろ、人類の長かった狩猟採集生活の記憶が現代のわれわれの血の中を流れているのか楽しいものだが、気の合った仲間と和気藹々、楽しむのがよいようだ。
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2007年06月15日(金曜日)更新
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ユーモアクラブのためになるユーモア講座 36
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諺でもっともよく知られている代表の一つは、「時は金なり」(Time is money)だろう。「光陰矢のごとし」時は弓矢のように飛ぶ。(Time flies like an arrow).それに、「歳月人を待たず」時の流れは人を待たない。
(Time and tide wait for no man)。この二つも、人に知られていることでは最右翼だろう。まことに御もっとも。身にしみて感じております。それに、上記の三つの諺を総合したような「少年易老学難成 一寸光陰不可軽」というありがたい教えもある。少年老い易く学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず。昔は散々聞かされたものだ。だがこの教訓をどれだけ生かせたかとなると、それこそ“慙愧”のいたりである。
「何事にもふさわしい時と場所がある」(There is a time and a place for everytying)これは旧約聖書の伝道者の書に出てくる言葉で、「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある・・・愛するのに時があり、憎むのに時がある・・・」このくだりは、われわれ異教徒にもよく知られているのではないだろうか。
「時は偉大な癒し手」(Time is the great healer) 確かにそうだ。「得意時、便生失意之悲」(得意の時、便ち失意の悲しみを生ず)注意すべきは、順境の時である。皆さまもご注意あれ。「常にまたの機会がある」(There is always a next ttime )いつも希望を胸に、日々之好日で生きるが勝ちか。
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