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北 広次郎(キタ こうじろう)
1936年 名古屋生まれ
東京外国語大学ロシア語科卒綜合商社丸紅に勤務、1966年より日本製繊維機械の海外輸出に携わり英国マンチェスターに永住する。
傍らエッセイスト、ドキュメンタリー作家、欧州産業革命研究所家工業ジャーナリスト、国際技術ビジネスコンサルタント等兼任。著書に「ミスターようろっぱ」「ユーロッパからこんにちは」など

『ユーモアクラブ』について、海外ではどこの国でも、実に含蓄のあるユーモアが日常の会話の中にナチュラルに解けこんでいる現実をみるにつけ、日本人のそれが残念ながら平均以下と気づきました。そこで、駄洒落ではないハイセンスなユーモア文化をマンチェスターから発信したいと思います。

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2012年12月07日(金曜日)更新

※ 英国もクリスマスを目前にして寒さがつのってまいりました。地球の反対側から故国を望見して、特に最近の衆議院解散以後の分裂群憂割拠乱立粗製濫党には溜め息が出てしまいます。
※ つきましては、先の第38号、第39号に更に付け加えたくお届けいたします。


第41号
 『日本に今必要なのは歴史教育革命、国家革命、国家企業会社』
  副題『法人設立の重要性と国際特許』

前説       

 海外二酸化炭素排出CARBONCREDIT取引権設定獲得、ECOWING装置製作、VEGEPLANT-BOX製作、リチユームなど レヤメタル鉱区権獲得などを総合的に扱うHOLDING COMPANY設立を真剣に考えています。今ここには書ききれない他の国際的プロジェクトも含みますが。 とにかく、もう国際的展開を考えないと、日本市場は限界があります。

 しかし、『歴史教育革命』をおこし、知恵を絞り『国家革命』を興し、国営公営企業を起こせば、日本国の経済力、国内政治力、外交政治力の活性化の道はまだあるという事は、幕末から大政奉還、明治維新当時の薩摩藩の賢策の足跡をたどってみると、そこに歴史的ヒントがあります。

 ひところ何でも民営化さえすれば、国力がつき、経済は活性化するとして、結局大手企業を優先し、日本孤島国内の中小企業を疲弊消滅させ、デフレに歯止めがかからない社会現象が、起きてしまったのです。
 最初に小さな政府、国営企業公営企業の民営化と唱えたのは、英国のマーガレット・サッチャー首相で、米国大統領はレーガンで、リバプールで4月に日本政府も参加した万国庭園博覧会が開催され、エリザベス二世女王陛下が開会式のテープカットをされて幕開けとなった。

 その翌年日本では筑波科学技術万博が開催されることがきまっていた。そして庭園万博酣の8月の日本週間は、当時オクスフォード大学に欧州中世運河史研究のテーマで留学中の浩宮徳仁殿下が開会式に参加された。

 その時ロンドンでG7回会議が開催され、マーガレット・サッチャー首相が、小さい政府、そして国営公営企業の民営化を提唱した。それを一足早く日本がパクリをしたようなものです。

 英国は産業革命以来、ほとんどの企業は民営でスタートしてきましたが、第一次世界大戦、1920年世界不況、第二次世界大戦を経過して、経済状況の変化に伴い不況時には、鉄道や自動車産業など民営不況業種を纏めて一括国営化公営化し、国民の税金を充当し、国策で支援延命し、又期が熟したら、一般競売にかけて、再度民営化したり、売却したりしました。

 それらの収入は、当然国庫に入ります。特に英国の郵政では、郵便事業は結局完全民営化は行えませんでした。国営放送BBCも同様でした。 
 
 ここで、その産業革命時代からの英国の歴史を理解されてない方は、ただもともと日本式に国営公営企業だったものを民営化したと勘違いされると思いますので、それについては又、北広次郎のミスターヨーロッパの次の別章編号で改めて説明いたします。 

 私にはいまいくつか新技術国際パテントの製品化の依頼案件がもちこまれていますので、総合的に考えています。とにかく製造部門販売部門を同時併行的にスタートさせないことには、日常運転経費の掛かる企業は回って行きませんので、複合的経営を考慮せねばなりません。

 いまXXXX国政府のCARBONCREDIT取引権設定にからみ出てきてる風力発電の大量採用計画プロジェクトにしても、法人化の必要性は必至とされています。それに先方は、ECOWING風車発電は、大型も直ぐ導入出荷でき体制にあるものとして捉えがちであり、こちらは慎重に大型は実験に時間があかかると言う表現をしていますが、しかしそんな言い訳ばかりしているようでは、こんごのもう国際競争には勝てません。

 従来の日本型のオーソドックス企業立上げ発想はもう現代には時代後れです。発展途上国が、もうここまで経済力技術力もそこそこレベルアップしてきたこの現実は、かつて日本がエコノミックアニマルと言われても、独り相撲で伸びてきたあの時代とは、全く異次元時代に突入してること、その時代的環境差の見えていない政治家官僚財界一般人が、八方海洋孤島国Jのネオ鎖国時代にオタクしています。

 とにかく昨年からさまざまな作戦を熟考して来ましたが、今後の国際市場のターゲットを視野に入れ、
新技術工業国際的プロジェクトの複合的ビジネス組織の創生を目途とするに、最善なる一つの選択肢として別メイルで、新作戦としての提案をいたします。

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 『北広次郎の国際特許への取組歴』  (パート1)

 私は戦後日本の工業経済力の草創期から、新技術に基ずき海外での市場開拓を担当してきました。その間海外で多くの国際特許問題にぶつかりました。

 1960年代70年代初期、日本にはまだ海外では『欧米特許の物真似猿真似コピー屋』とまで言われて来ました。ある晩、私は英国の片田舎村の織物工場の近くにあったパブの二階の部屋に宿泊していて、一階の大衆酒場の中で私は独りで夜飲んでた時に、周りの飲み客達に囲まれて私が日本人だと知ると、一斉に飲んだ勢いで非難気味に口々にそういわれました。

 しかしその中に、ただ一人の、日本を知る英国人がいて『終戦後の今の日本はそういうイメージを海外では一般に持たれてるが、私が朝鮮戦争時代軍隊にいて日本の呉に駐屯していた事があるが、それはちょっと違う』と反論し庇ってくれたあの場面を今でも思い出します。

 これは私が大学出て総合商社丸紅機械部に入社して、1966年以来からの英国駐在時代、私の輸出したメイドインジャパンの機械の技術的メカニズムやそこに使われてた装置部分が、欧米メーカーのあちこちから、特許侵害のクレームが来はじめて、『出る釘は打たれる』を文字通り体験しました。 

 あるとき、1965年英国工場から日本製大型捺染機械の初注文を貰って喜んだのもほんの束の間の事で、欧州の同様な機種のメーカーやその代理店から、特許侵害のクレームの手紙が舞い込み、既に関西のメーカーさんには製造発注をしてしまっていたのですが、特許侵害クレームに恐れをなした係長上司に、「この注文は、多少の損害は覚悟で一刻も速く降りた方が安全で、被害が小さくて済む」と言われて、泣く泣く手を引かされた経験がありました。

 当時戦後の日本には、国際特許の専門家が皆無状態の時代でした。「国際特許裁判にかかれば、裁判費用も掛かるし、莫大な損害賠償金をとられる」と言う自らの思い込みの恐怖観念しか湧いてこない日本人がほとんどで、「触らぬ神に祟りなし「三十六計逃げるにしかず」「国際特許と聞いたらもう無条件に下りるにしかず」の一点張りでした。


 こんな大型機械の注文を初めて先進国の欧州からもらった私は、実に関西のメーカーさんには、深々頭を下げて、ばつの悪い思いで、一旦出した注文のキャンセルを受けてもらっては腑に落ちませんでした。

 後に欧州に駐在してから、さまざまな日本企業からの欧米特許申請案件を依頼されて申請を請けおって各国別申請手続きを行い、欧米の特許専門弁護士とも共同研究調査し、またロンドン・ストランドの最高裁法廷に出廷し、国際特許裁判係争に立会いましてから、気がつきました。『三十六計』の論法で折角もらった注文を自らキャンセルし、辞退する必要は全くなかった事を知ったのでした。

 この事例は、今までこの英国工場が、長年使用してきた古い機械新機に入れ換えしようとしてたのですが、それまで継続して注文をもらって来ていたことから、欧州機の地元販売代理店が、お得意さんだった工場が、想定外のダークホースであるメイドインジャパンの布捺染機械に発注したことを知り、驚いて欧州メーカーと打合せ、パテント侵害をほのめかして脅しをかけてきてたのですが、戦後当時国際特許に無知であった日本孤島国内では「国際特許抵触侵害してる」と言われただけで無条件降伏でおりるしかない』と精査もせずに すぐ最初からお手上げをして逃げるのが精一杯でした。

 ここで国際特許と類似共通性があるので、音楽著作権にまつわる私の体験的エピソードに触れさせて戴きます。戦後日本にはまだ音楽著作権だとか、映像権肖像権だとかなんて意識も一般には無い時代でした。私の高校の一年先輩ん宮澤氏が、早稲田仏文科に居た時の恩師が西条八十先生で、その頃戦後日本に初めてJASRAC〈日本音楽著作権協会)が創設され、その初代会長に就任したのですが、宮沢先輩は卒業時に『西条八十先生に随いて行く所なら、どこでもいいや』という軽い気分だけでJASRACに就職しました。ところが本人は、JASRACって何をする所か全く何の知識も無かったままに、セミナーの延長として、随いて行ったといいました。

 後にJASRACの国際部長になった宮澤先輩が、ロンドンで開催された音楽著作権公演権世界会議に日本代表として来る事になり、「自分は英語が心もとないので、大会期間中は君が同席して脇に一緒についていてくれないか。頼む」と言われ、3日間随行し会議に立会いました。又その間に英国音楽著作権パーフォーマンス権協会会長グリーガードさんとも食事をしたり、その後私が英国マンチェスターのポップアーテイスト達と作詩作曲共作やレコーデイングをする時にも、音楽著作権に関する指導をうけるようになりお世話になるようになりました。

 私は中京地区の交響楽団指揮者田中瑞穂氏(インターネットで索引して見て下さい)が欧州はブラッセルに駐在滞在中の時代に、私の作詩約12編に作曲しています。
 それかから戦後、東京外国語大学新校歌一般公募に、私の応募作品が特選に選ばれ採用されました。
 北広次郎(エッセイスト名)の詩人名は柴原徳光でインターネットで索引出来ます。学校歌の作詩は他二校にもあります。

 ちなみに、その応募詩の作曲は後にJASRAC会長になった、芥川也寸志氏(作家芥川龍之介の子息)がやることになっていたのですが、その直前になって元宝塚出身の女優草笛光子夫人との離婚問題が突然発生し、芥川也寸志氏が日本作曲界の大御所であり初代日本作曲家協会々長清瀬保二氏(愛弟子には世界的作曲家武満等がいる)に頼んで選手交代になりました。清瀬保二氏につきましてはインターネットでご参照下さい。

 大学卒業時にコロンビヤ作詞課からお誘いの声が掛かったのですが、私は大学卒業後は海外で仕事をする希望でしたので辞退して商社に入りました。これは後になって知ったことですが、もしコロンビヤに就職していたら、阿久悠さんと丁度同期入社で、ご一緒にコマーシャルソングなど 制作のお仕事からやらさせて戴いていた事になっていたはずだったようでしたが。当時私は海外志向だったので違う道を選びました。

 ここで今なんで、国際特許から音楽著作権の話しになったかと言うことの説明をしなければなりませんかと思います。実は国際特許と音楽著作権は全く共通性があるからです。

 JASRACは音楽における特許権を管理するところと言えます。宮澤JASRAC(日本音楽著作権協会)国際部長は、その後英国音楽著作権パーフォーマンス権協会グリーガード会長に、日本が地理的に香港に近いと言う理由で協力を依頼され、当時はまだ英国植民地だった香港での音楽著作権の確立に共同作業をしていました。そして音楽著作権世界大会を北京で開催する所まで漕ぎ着けました。
 
 当時北京政府は、世界音楽著作権協会には「まだ時期尚早なので、加盟までにはもうしばらく猶予時間を戴きたい」といっていました。
 その理由は「十三億以上と人口が多い共産社会主義国家中国では、一枚のレコードがヒットすると、一晩で超富豪アーテイストが続々と誕生することになるので、今の中国国家体制にはふさわしくないからである」と言って、直ちに加盟ことには消極的でした。

 改革開放政策に転換し、99年間統治してきた後に1997年英国のマーガレットサッチャー首相政権が中国へ香港返還を実施してから、たった十数年後に経済大国に躍進し、GDPで日本を抜いて世界第二位となリ、金保有高でもアメリカを抜いて、ゴールド保有高世界一位になった今と、当時とはまるで隔世の感があります。
 当時私の先輩が英国に依頼されて、香港における音楽著作権確立と著作権侵害摘発法を指導していました。そして北京会議を開くまで啓蒙運動をしていました。


 戦後出来たばかりのJASRAC(日本音楽著作権協会)が一体何をする所か、まったく何の知識のかけらもないままに西条八十セミナー塾が、早稲田から別な都内ビルに移転しただけだったに過ぎなかったと言います。

 しかしそれからやった事は、キャバレーやバーかららパチンコ屋を主に夜回ってあるき音楽著作権とは何たるものかということから語り始め、著作権料を回収しようとするのですが、どこもかしこも『あほな事いいなさんな。わしらはちゃんと店で金出してレコードやテープを買って来て、毎日毎晩かけとるんや。なんでまた後から音楽かけるたんびに、使用料を払わにゃならんのや? そんなの二重どり、三重どりどころか、ぶったくりやんか。帰れ。帰れ。

「そんなの、誰が払うんじゃい」と毎晩行く先々の店で、どこでも追い払われる事の繰り返し。西条八十塾が、高利貸しに雇われたローンの借金取立屋みたいになってる事に初めて先輩は気づいたのでした。どこへ行っても、押し売りよりも好かれない厄介者扱いで追い出される。バーなんかでは女将が「うるさい。しつこいわねえ。警察呼ぶわよ」なんていう。こうなると説得は不可能に近いと気がつく。

 やがて、警察と弁護士と裁判所の協力が不可欠だとするようになる。その時の苦い経験が、今度は英国の協力要請により香港で生かされたのでした。

 中国人のインダストリアル・ファイナンス専門の先生が「2012年過ぎた今でも、一般の中国人には特許権とか著作権とかいう概念意識が全く無いのが普通です」と言ってる話しも聞きました。

  そこで私は国際特許の多くの事例を学習研究せざるをえなくなりました。また新案特許や商標権についても、さまざまなケースにぶつかりました。国際市場においては、単なる技術仕様や売った、買ったの価格問題だけではなく、特許の知識認識も重要であると言うことも学んできました。 

 そしてついに大国際特許係争を体験する事になります。それは、私は丸紅の頃ロンドンの最高裁法廷に2年かかって20回余り、チェコスロバキヤ国営機械公団に対抗し、英国最大の民間企業顧客ICI(IMPERIAL CHEMICAL INDUSTRIES)のその傘下の大手繊維グループ・キャーリントン・バイエラ社とニッサン自動車繊維機械部、丸紅株式会社を 私が束ねて代表し、戦後日本最大の特許大係争を行なわざるを得ない羽目に直面する事になりました。

そして実質勝訴しました。これは敗訴すれば、日本の戦後最大の莫大な賠償金が絡む大裁判で 私が世界市場に始めて売り込み欧州の工場で,量に使用され始めて来た当時のニッサン自動車繊維機械部製造の水噴射式織物機械に関する特許係争でした。  
 
敗訴の夢を見て冷汗を掻いた夜が幾晩幾朝かありました。ロンドン・ストランド最高裁判法廷は、毎回朝9時から夕方5時まで出廷させられました。この裁判の準備のために、弁護士に提出する書類やデータは,、こちらがすべて収集し提出しなければならず、普通弁護士(SOLICITORS)、法廷高等弁護士(BARRISTERS)などと、打合せを重ねると同時に、過去現在の法令や判例も勉強する必要に迫られました。以後商社メーカー間では 国際特許部長という異名がつけられました。

 ここで日本と欧米の間の特許に関する制度の大きな差があることに気がつきます。日本では特許新生を扱うのは特許弁理士ですが、海外には特許弁つまり日本で言う特許弁理士は、欧米では特許弁護士に相当します。特許弁護士と言うのは、他の弁護士より欧米では地位が高い。

 なぜなら、その分野はあまりにも広くて深い専門知識と経験を要しますことは、他の分野の弁護士さんの数倍以上です。これは人間を扱う医師と獣医にも似て、どちらがより広くて深い知識訓練が必要かと言うと、後者です。
  
 英語圏では普通の医師をドクターというが、普通の医師の上に立つ監督主任の医師のことはミスターといい、大きい総合病院内の専門科別表示にもDRが数名そのトップである主任部長医師の敬称はDR。ではなく、MR.で記載されて居ます。これは日本人がみたら、以外だと首を傾げています。

 弁護士にしても、普通弁護士はソリシターと総称されていますが,法廷に立って文書を作成して提出は出来るが、法廷では一切発言できません。法廷で発言できるのは高等法廷弁護士であるバリスターのみです。その点でも、日本の司法制度とは、大違いです。日本の司法制度は、明治維新以後 欧米の六法全書の直訳採用からはじまったといわれて居ます。

 ですからいまだに明治時代がそのまま継承されてる法律とか、スタンダードがそのまま日本にはのこってると言われてるものもあります。JIS(日本工業規格)といわれる規格基準にしても、例えば電気規格にしても、或いは民法の国籍法にしても、明治がそのまま残ってる部分もあるとか言われます。

 その後日本の大中小の機械メーカーさんからの、国際特許ケースや国際的商標権登録申請を代行しました。日系企業の現地会社や工場設立に際しての法的手続きとかも行うようになりました。

 海外で機械販売する場合は、ただ売り込むだけではだめで、どうしてもアフターケヤーサービス画必要です。故障したら修理せねばならないし、アクセサリーパ―ツが破損したら、直すか交換せねばなりません。従来そのような仕事は、商社の仕事ではなく、メーカーさんの仕事だといわれて来ました。しかし複数のメーカーさんの機械を海外国で、客先工場に納入したり取り扱っていると、やはり部品ストックが必要不可欠になってきますし、修理屋部品交換などのサービスには、現地国現地人技師が必要になってきます。

 最初は壊れた部品を、航空便で取り寄せて間に合わせていましたが、それではサービスが遅れてしまい工場はしばしストップせねばなりません。そこで商社機械部が開会を扱うには、メーカー機能も併用せねば成り立たなくなってきたので、稟議をおこし、戦後商社初の繊維機械合成樹脂機械販売サ創ることにして、先ず最初欧州は実験的に英国に子会社を創立し、初代取代表取締役に就任し、その後更に丸紅テクマテックスフランス会社、丸紅テクマールイタリヤ会社など現地法人を次々に各主要国工場地帯に創立し、役員を兼任しました。

 更に英国通商工業省傘下機関の英国地方工業開発協会委員会の顧問に任命され、日系企業工場建設の英国誘致促進活動に従事しました。マーガレットサッチャー首相時代、ニッサン自動車英国工場建設を皮ぎりにして、多くの日系英国工場建設のアドバイザーとなり、英国地方政府、中央政府の返済不要工場建設支援補助金(GRANT)制度を活用し、英国へ日系企業の工場建設進出を促すようにPRをASSISTするように依頼されました。 その頃日系の工業新聞や産経新聞、雑誌社などから、工業ジャーナリストとして、英国工業事情ルポを書くように依頼が来るようになり、私の書いた記事が各紙に掲載されて来ました。

 そして英国に工場進出に関心を抱く日系企業現地調査使節団が来英するようになり、英国地方工業開発協会に依頼され、英国工場見学に案内し、また英国事情についての日本語での説明講演をするようになって来ました。また逆にスコットランドの工業開発協会などは、日本の製造工業事情や日本式会社経営工場経営について、受入れ英国人側工業界財界地方政府大学代表たちに説明会講演に講師として招待を受けました。

 エジンバラ市の歴史的なピーブルズ・ホテルを借り切り、二泊三日のセミナーが行われ、参加者は家族ぐるみで泊り込みで来ていました。初日開会の晩餐会のスピーチは、延々と続来ましたが、私が参ったのは、当初歓迎の意を表されたのはいいが、バイキングの銀製の兜にスコッチウイスキーを一本分注ぎ込み、いっき呑みを強要されたことです。会場の全員が私を注目しているのです。これを一気飲みするのは相当な勇気が必要でした。

 黒田節{武士}を思い出しました、ここで躊躇したり、くじけては日本人の恥になると思い目を閉じて呑み干しましたら、大拍手喝采を受けましたが、少しくらくら眩暈{めまい}がしました。これはその昔10世11世紀に、バイキングがスコットランドを征服し英国王に即位し田時以来の、ナイト{騎士}の儀式{しきたり}であると言われたので、今後この地域に、日本企業工場進出を受け入れて貰うためには、絶対にいっき飲みを敢行せねばならないと悲壮な覚悟でやりました。

 そこには、スコットランド銀行の経営陣、DTI(英国通商産業省)代表,英国総労働組合連合会々長やスコットランド・キリスト教会総連合代表、元東大に研究留学していたスターリング大学の経営学科教授などが並んでいました。じつはその後が心配で晩餐会終了後、今度は大ホールで大人だけのダンスパーテーが始まったのですが、参会者達が入れ替わり立ち代り手にブランデーやスコッチの入ったグラスを持って来て、私はそのあと、どうなったかは、オフレコ。

 翌朝セミナー開始、座長の大学教授が、私に講演の指名をした時、壇上で私はまだ空中遊泳をしてるようでした。又この日に限って、会場では質問者が次々挙手をして立ち上がって、その時頭に浮かんでいたのは、マーガレット・サッチャーさんの顔でした。実はサッチャーさんは、男顔負けの大のすスコッチ・ウイスキー愛飲党でした。お茶みたいなもので、いくら呑んでも平気なほうで、それも鉄の女のニックネームの片棒を結果的に、偉大な業績を挙げたことは事実です。

 2012年現在欧州のEU加盟国は27ケ国在りますが、特に日系工場進出数が圧倒的に最も多いのが英国です。1960年代70年代前半は、まだソニーもホンダも海外では発足したての、ほとんど無名の小メーカーでした。幕末明治維新以来、世界産業革命の発祥国英国は、日本にとって遠くて近い島国です。

 現在英国にある日系工場は、ニッサン、トヨタ、ホンダ、日野、ソニー、三菱電機、日立マクセル、シャープ、富士通、ブラザー、サンヨー、旭ガラス、ノリタケ、東レ、日本本板ガラス、コマツ、三菱グッドイヤータイヤ、MAZAC(山崎鉄工),紀文カマボコ、YKK吉田工業等々、製造業以外では商社、銀行、証券会社、保険会社、日通、日伸運輸、HISやEURO-JAPAN-HOLIDAYS等旅行会社、教育学校 立教、頌栄ウインチェスター女学院、前田学院、日本食品店、レストランなどなど枚挙にいとまがありません。

 1960念半ば、ロンドンに赴任した頃の、ロンドン在住日本人は家族あわせても800人位でしたが、2012年には6万人となっています。これは日本大使館に届けを出してる邦人ですが、届けをだしてない邦人数を加えると推定5千人以上加わる可能性もあります。

 私が1960年後半から国際特許にかかわって以来、世界情勢も変化しました。まずEUの統合、その起源的思想はローマ帝国の拡大、東ローマ帝国、十字軍遠征、バイキングの南下、ハンザ同盟、バチカンと結びついたハプスブルグ王朝の確立、ナポレオン征服戦争ロシヤ遠征、第一次世界大戦、四世紀半続いた欧州覇権のハプスブルグ王朝の消滅、第二次世界大戦と欧州統合は欧州の長い歴史的な夢でしたが、第二次世界大戦までは、ハンザ同盟を除けば、すべてが軍事力に頼っての征服統合でした。

 しかし第二次世界大戦終結、武力、軍事力に頼らない任意加盟契約制欧州共同体EUが誕生しました。 その初歩的お手本はハンザ同盟にあったともいえます。EU(EUROPEAN UNION) は最初EECと称していました。
  
 英国はEUに加盟するのが、遅れましたが、それには歴史的理由があります。EEC/EU以前に英国は、地球上の英国旧植民地を束ねるEFTAと言う同盟協定を結んでいました。そして英国はEUに加盟しましたが、通貨に関しては英国ポンド(STG.£=GBP=BP=UKP)を変えず、ユーロ(EUR=) 通貨には加盟していません。こういう独自性も認めてる所がEUの特質です。

 つまりEUが国境を越えて地域共同体連合組織を果たしました。このパターンは やがてアジヤ豪州連合(ASAU)、北中南米連合(AMU), アフリカ連合 (AFU)になるでしょうが、まだまだ遠い道程です。

 しかし、欧州はEU27ヶ国個々別々にそれぞれの国の特許庁に特許申請をして、特許維持料を個別に払い続けねばなりませんでした。だが、EUに統一されてから、今は特許申請はEU一回の申請で 少なくとも17ヶ国から27ヶ国の特許がとれてしまうことになっています。 

 従来日本の場合、先ず日本の特許庁へ申請し、次米国、そしてEU欧州へというパターンでしたが、今は国際特許の専門家は、先ずEUへの申請からはじめることが最も得策で経済的となってきています。 

 そして会社設立はロンドンからはじめるがいいとされています。それは法人税が日本より安いということもありますが、2012年エリザベス二世女王戴冠60周年式典、ロンドン・オリンピック・パラリンピックの成功でもあり、不動産建設経済価格も堅実であり、政治的に英国は安定してると言うこともあります。 

 英国はEUに加盟しながらも、通過だけはユーロに変えず、英国ポンドを守り独自制を通してきてることは賢明であったという経済専門家もいます。 EU加盟国のなかでも、各種案件ごと個別にそれぞれの任意的合意性を重んじる点が、欧州の永い歴史の積み重ねの知恵に基づいた独自性をも尊重する大人の同盟圏である。

 日本孤島国の政治屋たちはいま国会解散の政治の駆け引きにTPPの扱いを、選挙の票を意識するための迎合的術策の道具に曲用しつつある。TPP賛成派、反対派が、白か黒の二色しか言わないのはおかしい。

 まだ大部分の国々が灰色以前の段階である。TPP絶対反対を、原発絶対反対と同列に並べる事自体が、
当面の呼び込み選挙票のみを意識した政治屋の掛け声で、そもそも政治屋も、国民自体もTPPの最終目的の中味を国際経済的局面、国際政治的局面、戦略的局面、どれだけ深く理解してるかははなはだ疑問に感じるのです。

 現に今の日本国の立場からすると、政治家が真の政治家でなくてはならない資格は、国内政治家であると同時に国会議員たるものはリーダーも含め全員、国際政治家レベルでなくてはつとまらないが、現実にやってることは政治屋活動であり、県会議員、市町村会議員と同列の事を三重構造でやってるに過ぎない。

 そうなると、選挙のときだけどちらかというと片方で国家レベルの自国重視は表向きの東京での顔、、そしてもう片方では票のための地元重視の顔を持たねばならないという、二重人格構造になるから、政治屋レベルに、後の政界は正に離散分裂野合烏合の衆愚状態に近い国家になってしまった。

 これを一体、海外国にはどう見えるか? と言うと、不統一孤島国家、リーダー不在迷走国家、小田原評定国家、ネオ・フューダリズム混迷国家、外交拙劣低迷(ある所では音痴とも言う)国家、、我田引水(日流我流)解釈国家、分裂離散国家、政治屋屋号(野合)世襲タレント国家、そして極めつけのレッテルは斜陽化国家、信用不安国家です。

 日本孤島国の中には、いくらなんでもそこまではと、旧態然的現実不感症候群のノー天気型人種も存在するが、しかし当今の現実は現実です。
 
 ここで明治維新革命の直後の日英関係の歴史の原点に再度戻って、日本を見直してみる必要性を痛感します。 日英関係ということは、日米関係と言うことにもなります。
 
 世界第一次大戦、第二次大戦のような、世界的な戦争になると、英米を主体に、英語圏国同盟は、先ず一致団結します。

 米国の大統領はワシントン以来、オバマを除くと、歴代先祖が英国系です。ジョージ・ワシントンの御先祖は、英国から新そこにはニッサン自働車英国工場があります。

 私は丸紅テクマテックス時代、ニッサン自動車繊維機械部製造のニッサン・ウオーター・ジェット・ルーム(水噴射式自働織機)の代理店をしていたので、自動車工場建設前にその建設候補地の土地探しなどを依頼され、手伝って来ました。
 
 当時のニッサン自動車社長は石原洵社長で、しばしば英国を訪問去れましたので、私もニッサン織機採用稼動工場車など案内をしました。石原社長は、私に英国の労働組合事情とか、英国の技術者や工場事情など、熱心に訊かれまして航空機の中でも、私を隣の席に座るように求めて、私の説明を小さなポケット日記帳に、こまめにメモをとっていました。

 後に石原社長はエリザベス女王から受勲されることになりました。また英国側で、ニッサン自動車英国工場建設を最も熱心に支援したのが、マーガレット・サッチャー首相御自身でしたので、石原社長は、たびたび訪英して、ロンドンのダウニング街10番地の首相官邸を訪問しました。

 マーガレット・サッチャーさんも又日本のニッサン工場も訪れ、ヘルメットかぶって自動車組立工程視察もして、英国工場建設致を盛んに呼びかけていました。

 これはニッサンばかりでなく、キャノンとか他の日本の工場も視察して回り、英国工場進出を誘致する運動をしています。もと世界産業革命の発祥地国の首相が、ここまでやったケースは珍しいというか、    とにかくサーッチャー首相は日本贔屓で、特に日系の企業誘致には燃えていました。

 何故サッチャーさんがそこまでやったかという事については、ここでは紙面の都合で、説明しきれませんが、北 広次郎を検索されて、ミスターヨーロッパ 中、かぶってる部分もありますが、エッセイ第6号,7号.9号.10号、21号 23号を参照しても見てください。 

 永い英国政治史上において、後にも先にも女性で首相になったのは、目下の所、マーガレット・サッチャー首相だけですが、私は首相在任中"鉄の女宰相"といわれた通り、時には強引なまでのリーダーシップを発揮し、最初一見不可能と思われてた常識破りの国家大改革政策を、次々推進実践して来ました。私はそれをずーっと見てきました。 

 英国に戦後の政治経済社会の大革命的変革を敢行するために、ここまでやったマーガレット・サッチャー首相のような政治哲学と発想力と行動力を駆使できる政治家や首相が日本にも出現すれば、日本病(Japanese Dasease)から、脱却できるチャンスは大きい。

 いまいちどサッチャリズム(サッチャー主義)を復習してみれば、そこに模範的ヒントはあると思う。 幕末明治初期薩摩藩の多くの志士たちは、自己発意と使命感を持って、英国に留学し産業革命酣の工場見学をして歩き、帰国後彼らは政治家や官僚にもなり意欲的に工業資財や機械類工業技術を導入しドラスチックな日本国近代化を推進しました。 その百年後、サッチャー首相は、歴史上日英入れ替わり、幕末明治の英日関係逆版能動的に実践してると、私は痛感しました。

 当時以前、日本人は" "エコノミック・アニマル"と揶揄されていました。 田中角栄首相が東南アジヤ国を歴訪した時、ある国ではメイドインジャパンの輸出超過に対する抗議団が街頭で、日本車をぶち壊す示威運動を行ったことがあります。

 一方日本のマスコミや評論家達はいっせいに"英国病(Enlish Desease)の老頽国"と書きたてていた時期が続いていました。戦後当時の英国政府は財政赤字を抱えて、今の日本と似た状態にはありましたが、日本と異なるのは260を超える職能別労働組合制度が、" 英国病 (Enlish Desease)"の原因ともいわれ、日本のマスコミは "年がら年中ストライキをやってる非生産性国"と酷評してました。

 ところが最初は、保守的英国民は女首相が何が出来るか?と侮っていました。しかし大胆な政策が、次々打ち出され国内政策のみならず、対外政策でも、南アフリカのアパルトヘイト対策、フォークランド戦争、中国への香港返還、ロシヤの民主化へのゴルパ常に実にユニークでした。

 サッチャー首相の実績の具体的な内容については、北広次郎を検索し、ミスターヨーロッパを参照ください。 現今の問題点は日本孤島国がジャパニーズ・デイジーズ(日本病)老頽国"と逆転してしまってることです。 

 サッチャー政権下の英国人の反応を 私はずーっと見てきました。そして首相退任されてからも、宇都宮グランドホテルで、2泊3日の日本商工会議婦人経営者セミナーの座長をつとめられた初日開会式と、チャルロッテ・ド、ロスチャイルド特使の前座コンサートでもお会いいたしましたが、鉄の宰相のオーラは消えていませんでした。


 サッチャーさんは、それも単なる掛け声だけでなく、日本を含む外国企業の英国工場建設のためには、補助金(返済不要)グラント(GRANT)まで準備して、国内企業外国企業の差別なく同条件で扱われました。

 その中でも、日本には特に好意的で、肩入れしていることが良く分かりました。それにはまた別な理由がありますが、ロンドンのユキさんと言う鹿児島出身の私の親友のファッション・デザイナー鳥丸軍雪氏を特に御贔屓にしていたせいもあります。

 もともと米国はジョージ・ワシントン第一代大統領以来、独立戦争はあったにせよ、英米は言語も人種もキリスト教も、社会制度も基本的法律も、生活様式も、建築様式も根底では共通一体であったこと想起してみるべきであります。

 エリザベス二世女王から チャールス皇太子とダイアナ妃の間に生まれウイリアム皇太子がキングに即位する日も刻々と近ずいています。

英国は王室外交を、いい意味で実にたくみに活用しています。同じキリスト教のカトリックから、英国国教のプロテスタントに改革したヘンリー八世の娘であるエリザベス一世女王の即位期間は63年でしたから、現今のエリザベス二世女王が、エリザベス一世女王の即位期間を超えるのは、ほぼ間違いないでしょう。
 
 英国の歴史の変遷のなかで、数々の法制やスタンダード(規格基準)が制定されて、国際基準現人類は、
今恩恵を受けています。特許法が生まれ知的財産権が発祥したのはヨーロッパで、商業工業活動の権利の保全同盟意識は条約、契約、盟約の国際的法文化が積み重ねられた欧州でこそ広範囲な国々を束ねるEUが結成される素地があったと言うことになるでしょう。ここでも、又感じることは、国境陸続大陸民族と、四海八方海洋孤島民族の、歴史教育の局限の相違点であります。 

 薩摩藩の密出国留学生が幕末に英国を主体にして、欧州に渡り貪欲なまでに吸収してきた欧米の文明文化が、近代、現代日本の建国の礎になったことを再確認する必要があります。

 そのためには、日本の戦後の歴史教育を大革新せねばならない。最近特に日本孤島国では現行の政治への不安がはびこる余りやたら『維新』『維新』を流行語にしてるが、幕末明治維新に比べるとその次元の差や、ほとばしるマグマ的エネルギーの差に比べると単に口舌の徒である。政治家ならぬ野合政治屋の唇から出る『維新』の掛け声は、空ろでむなしく響くのみで、またかです。

 私は1960年代から欧州に在住し、日欧間の歴史教育法の民族生活環境の中でのデイシプリンとモラル的感覚差に気がつき愕然としました。

 欧州では古代中世近代の街の環境の中に現代があり、世代が変わって交代しても、新世代でも歴史環境の中にそのまま、現代でも生活しています。それだけ歴史を身近に感じている生活をし、歴史教育も身近に思っているのです。

 日本の歴史教育は中味よりも背景よりも年表集約羅列型です。その格差に気がつかないのは、特に戦後日本の年表羅列型歴史教育、とりわけ世界史教育にあることに、真剣に革命を唱える政治家・官僚教育者が不在であることに起因しています。

 鎖国日本から幕末明治維新を起こした時の『維新』と今現在の日本の口舌の徒の政治屋さんが、軽佻浮薄な流行語で唱えてる『維新』では、その軽重差は歴然としています。

 『維新』という前に、何故『革命』と言えないのか? 『明治維新は』は『明治改革』でなく真の『明治革命』だったのです。

 政治も経済も『革命』でなければ、真の再生復興の原動力になりえない。片や英国王室型ロイヤル外交めざして、日本にも英国に似た世界最長の歴史がある皇室があり、英国王室とならんでロイヤル外交行うにふさわしい環境が整っています。
 世界の二大王室国は英国と日本です。 日本国も、英国と同じ孤島国です。極めて似てる歴史があります。世界産業革命の発祥国、英国は世界一の発明特許技術大国でした。

 今後の日本再生の道は、国家を挙げて発明特許大国になることが、日本の生きる道です。それには国家が資金的支援して、大企業中小企業、個人の差別なく、国際特許取得を国家事業として行うことです。

 それから何でも民営化を唱えて来た方針を改めて逆に不況産業の国営化を実施すべきです。それと国家国営公営でなければ出来ない海底メタンハイドレート開発や火山利用の地熱発電とか、大資本を要する国家的事業もまだまだ多くあります。

 与野党談合して税収入の不足に対しての、マンネリ赤字国債の積み重ねをしていては、国家の財政経済の根本的復興改善には繋がらない。それを抜本的に改良するには、税収入依存症には、見切りをつけて、思い切った国営公営事業による主導的能動的中央政府、地方政府の収入源を確保する革命を興さねば国家社会は、変らない。

 そのお手本は世界産業革命の発祥地の英国の歴史にあります。民営から始まった企業の国営化を行いそしてまた民営化を繰り返してきたのが、英国です。

 明治維新直後薩摩藩出身の北海道開拓長官黒田清隆は、米国政府から派遣され米国型民営起業論政策を唱えていた米国政府派遣のケプロン特使(元米国農務省長官)と激しい議論をして対立しながらも、当時の日本の基幹産業などは、まだ民間社会資本に依存していては、いつになったら起業できるか分からないと主張し、鉄道、通信、郵政、炭鉱等基幹産業工業を興すについては、国営化事業としてスタートに踏み切ったのでした。

 国家の大改革を要する時代には強いリーダーシップが必要です。これはどこの国でも世界共通です。 最近の日本孤島国の政治家ならぬ政治屋は、たしかに二世三世世襲家業国会議員とタレント議員が、極端に増えてるのは、世界で日本独特の現象です。

 これはかなりゆゆしき問題です。二大政党の片方の幹部たちが、苦渋の言い訳してるのを見てるのも 痛ましくむなしく響いている。そのスピーカーも内心ではやはり、国家の政治のためにはかんばしくないと思ってる顔色がにじみ出ている。

 国民にそれが見えている。最近の日本孤島国の政には、リーダーシップがないまま、口先だけ、国家のため、国民のため、維新維新と言うが、幕末明治維新の時の志士のような、身命を賭して闘う迫力は全く感じられない。 

 いまや政治家たる者は、国内政治家だけではだめで、国際的に通じる政治家でなければ、政治家といえません。

 欧米の政治家は特に閣内の政治家であり同時に国際的な政治家です。最近の日本にはそういう真の国内国際政治家が出たためしがない。又そういう政治家がどの政党にも不在です。だから島国内の村落政治屋レベルでしかない。 
 
 それで一年交代首相ばかりです。海外から日本は永遠に赤字尻拭いを続行するしかない政治では、国民はジリ貧に向かうしかないのです。

 私は国営公営営利企業公社を創成し、雇用を増やし任意制で退職定年者の知恵と経験を生かすシステムを創り知能生産性集団を設営し、国営公営企業公社が地方税の50%負担し族を行うシステム構築を興すべきだと考えます。

 少子化高齢者社会に入ったら、そのような革命システムを構築しない限り、国家が成り立ってゆきません。ですから毎年赤字国債発行だけを繰り返しやり続けるだけではいたちごっこのモグラ叩きで、全く能がないので、私は公営営利公社の早期創成を強く主唱したいのです。

 その方法はあります。高齢者の知能財リソースを生かし、経験ノウハウを総合有効活用するスステムを創るということです。

 幕末、摩藩密出国留学生が英国にわたり、欧米文化法制工業技術などを吸収し、明治維新革命開化の推進に貢献したエネルギーは、欧米での生活と文明を実体験した基盤が身についていたからこそ、培われたものでした。

 徳川幕府の御禁制を破ってでも、英国へ密出国留学を黙認した薩摩藩島津公は欧米を賢察していました。

 幕末、薩摩藩は薩英戦争から一変して、薩英同盟を締結し、英国の技術機械を導入し、大砲製造工場、日本初の綿紡績工場を造り、初期の水力発電所までつくって電燈まで灯していました。

 そのころ英国マンチェスターのプラット・ブラザーズ社から綿紡績機械を輸入し、英国人技術者七人が鹿児島に招聘されてきて滞在していました。

 後に日本が技術工業立国になったすべての源は、薩摩藩の鹿児島港にあります。そして世界産業革命発祥地マンチェスター・リバプールに繋がっていました。

 ところがこれが宿命的因縁で、実は後のトヨタグループに繋がってゆくのです。トヨタグループ始祖である創立者は豊田佐吉翁ですが、佐吉翁が発明した自豊田式自動織機がロンドン万国博覧会に出品展示されました。そのプラット・ブラザーズ社が豊田佐吉翁の自働織機特許に支払ったロイヤリテイーが、トヨタ自動車発足の資本金になったのです。

 このロンドン万国博覧会にもう一人の日本人が人工養殖真珠で作った五重の塔を出品していました。それは三重県志摩半島志摩湾で、世界初の養殖真珠製法の技術開発に成功した御木本幸吉翁でした。佐吉と幸吉で、その後の日本の工業産業化を推進進する希望の星である二大チャンピオンの二キチ(ニ吉)となったのでした。
 
 2012年ロンドン・オリンピックでレスリング女子55キロ級において3連覇目の金メダルを獲得し、国民栄誉賞を授与され、ご褒美に地元御木本のゴールド・パール・ペンダントを戴きましたのがヤマトナデシコ吉田沙保里選手です。御木本幸吉翁も吉田選手も双方、ロンドン万博とロンドン ・オリンピックという大国際イベントは、すべてロンドンに結びついていますのは、単なる偶然とは思えない歴史的宿命の因縁の日英の絆で結びついているとしか私には思えません。

 工業産業もスポーツも技術力、先を見抜く洞察力、判断力、耐久力、努力です。薩摩に示現流という剣法があるが、時代を超えても、正にその伝統的神髄の精神に相通じるものがある。

 その嚆矢として、幕末に先鞭をつけたのは、日英同盟を結んで、英国に留学生を送り込み、また 産業革命酣わの英国から技術者を招き封建制鎖国日本に国家大改造革命Miracle Revolutionwoを興す桜島のマグマを起爆剤にした薩摩藩でした。そして日英同盟を結び、これに長土肥が呼応してゆきます。 

 繰り返しますが、英国と日本は共通点があります。それはロイヤル外交です。そして英国は世界産業革命発祥の地であり蒸気機関など、さまざまな革命技術がありました。

 日本は戦後いっとき、いちどは工業技術立国になりましたが、しかし翳りがあります。工業産業には民間民営が出来ることと国家国営でないと出来ない大事業に向かないことは、明治維新薩摩藩出身の黒田清隆がいみじくも、北海道開拓長官の時に唱えていました。

 今後の日本経済力の再生・活性化には、新発明技術とか、新発見鉱脈など、国営企業を創成してゆく以外にありません。その場合に気をつけねばならないのは、東電方式の民だか国営だか、最初から曖昧な企業体を作ってはならないことです。

 国営公営企業は国民への奉仕隊サーバントであるというデモクラシー哲学の理念意識の涵養・養成から初めないと、日本はまだまだ中途半端国家です。
 
 たとえば国警察ではNO-TORERABCE予防主義方式を以前から採用してきていますが、日本の警察では変なストーカー事件、俺俺詐欺事件、尼崎鬼女連続殺人事件など、後手後手の後追い事後処理型から、一歩も出てない段階で予防主義には程遠い感じです。 最近英国警察では、ストーカー取締専門捜査被害者防衛対策の刑事・警察官隊の養成訓練を開始しています。

 日本孤島国内も、近年犯罪オンパレードのCRIMINAL DEPARTMENTSTORE{犯罪百貨店}化してきました。その昔、戦後日本国は国連統計でも、犯罪検挙率世界一の優秀な警察による安全安心国家といわれていた時があり、日本の警察の信頼度が高く、日本省庁の官僚は世界一優秀で、官僚護送船団方式の日本丸経済は不沈艦船団である豪語していた時代がありました。

 今現代の若い世代の日本人はそんなことを信じられないというでしょう。しかし、戦後の一頃、自画自賛だったのか、張子の虎だったのか、買いかぶりだったのか、奢れるエコノミック・アニマルといわれことがありました。

 あれはうたかたの夢まぼろしの今昔物語なのか。あの頃の日本はどこへ消えてしまったのか? あれは砂漠の蜃気楼の幻影だったのか。

 そして失われた20年も通りこして30年にもなろうか? と言うところで、明治維新革命の原点に戻って、出直すしかない時点に来ていることを、日本国民全体が自覚せねばならないのです。歴史教育の革命から興して行かないと日本国は変わらない。

 今の日本国では、歴史教育革命を真剣に起こさないと、何処かが変で、何かが欠落している空気が漂っています。

『明治維新』は『明治変革』でもなく『明治革命』であったのです。その精神と実践行動を正しく教育し継承せねば、今後の日本孤島国は変わらない。『明治維新』は今の政治屋が軽く、単なる掛け声だけで曖昧語の言葉の『維新』ではなく壮大なる『国家改造革命』であったと言うべき歴です。

 そういう歴史上の出来事だったという認識革命を今後の歴史教育で、焦眉の急として、次世代に植えつけて行かないと、日本経済力再興の人的リソースと国家的エネルギーが生まれて来ない。さもないと 日本国の明日にとって、悲惨な最大の損失と取り返しの効かない禍根になることは明白である。 

 又日本国にとって、今日こそ発想の大転換と、明治維新革命の歴史の見直しと再認識が必要とされていて、国情は戦後最大の逼迫した瀬戸際状態に来ていることを心底から感得し、国を挙げて全体が意識革命に目覚め、行動を興し実践しなければならない時期に直面しているのです。

 かつて日本孤島国では明治維新直後, 廃藩置県が実施された歴史があるが、廃県置州という国家大改造法もありうるのではないか。

 この先例はやはり英国にあり、マーガレット・サッチャー政権時代、真中の政府は不要として、グレーター・ロンドン政庁、つまり都庁府庁都府議会を全面廃止しました。英国の正式な名称はユナイテッド・キングダム(UNITED KINGDOM=連合王国)です。すなわち歴史的にイングランド、スコットランド、ウエールス、北アイルランドの四つの王国で成り立っています。

 北海道州議会(HKU)、東北州議会(THU), 関東州議会(KTU)、中越州議会(CEU)、中部州議会(CBU)、関西州議会(KSU)、四国州議会(SKU)、中国州議会(CGU)、九州沖縄州議会(KOU)の9州制にする地方分権化の方法も考えられないことはない。 9州制にして、それぞれの州内市町村を州議会州政府に直結させる。

 中央政府は国家安全保障や、国防、国家外交など国家的中央行政に専念する。これは地方分権化の推進のためにも有効。そして首相全国民公選制とする。その場合二つのやり方があります。 

 米国方式のように、先ず州単位で投票して、最後に9州の結果に従うか、それとも国民総投票制にするかです。

 9州制を5州制にすることも場合によっては4州制にすることもありうるが、国家大改造の方法を考え、国民的エネルギーを注ぐようにしないと、どこかの国のシンクタンクが予告してるように、2030年には、日本国はLEVEL-2の経済国に2050年にはLEVEL-3の小国に低落するといわれてる通りになってしまう危機感が当たってしまうのではないか。

 この予想を、日本孤島国人は、現在はお腹の中ではそんなことはないないと、他人事のように思って、あまり深刻に考えてはいない。要するにノー天気すぎる。『明治維新』 『明治革命』の原点と初心に戻って歴史を学び直さないと、斜陽没落のCLIMACTERIC CLIFF(危機の崖)が見えてこない。

 今こそ発想の大転換を図り、国家的主要問題の総国民投票制度を早期導入する大鉈を振るわないと、日本孤島国の不況脱出の経財政政策、その他のSTAGNANT(停滞的)な国情は形も中味も変容しない。 

 既に繰り返し申して来てますが、日本孤島国内の経済の致命的癌治療は、急ピッチで国営公営企業を創成育成して行くしか方法が無い所まできているにもかかわらず、政治屋たちはますます離散分裂の野合迎合に走って、国民をますます戸惑わせている。

 今日本列島国は、本当にこの国を建て直すには、そんな表面的もっともらしい言葉のマニフェストごっこをやってる場合ではない。

 本当に国家、国難を救える強い真性リーダー的国内国際政治家不在で、国民はFRUSTRATIONを感じ苛立ってる事が伺われる。

 明治維新直後の日本政府は、金欠病に悩まされながらも次々国営公営企業を立ち上げて近代化を遂げてきた歴史がある。

 日本の戦後の歴史教育の曖昧さ不備状態放置がこの状態を作ってしまった。早急に歴史教育の根本的改革革命を実施しないことには、手遅れになるという逼迫間と自覚が、地球の反対側から日本国を望見していて、2012年末ほど、故国への焦燥感が吹き上がって来て、歯がゆさが極大化しています。
 

2012年11月27日(火曜日)更新

第40号
   北 広次郎プロフィール

(作詞家筆名;柴原徳光)
(国際技術ビジネスコンサルタント、工業ジャーナリスト、幕末から現代にかけての欧州日本関係史研究家、世界産業革命史研究家、ミスターヨーロッパ欧州体験エッセイスト、他方で詩人作詞家でもある) 


略歴
東京外国語大学ロシヤ科国際関係課程卒 
大学在学中のフランス語英語スペイン語イタリヤ語通訳翻訳 
元日本工作機械協会早坂力(つとむ)会長翻訳通訳秘書

「追加説明」
 大学在学中から日本工作機械協会会長早坂力(ツトム)氏の非常勤翻訳通訳秘書兼助手となる。早坂先生は戦後の機械分野のJIS規格書編纂主幹者で、北広次郎はその助手として編纂を手伝う。 また早坂先生は終戦直後の荒廃した日本には、欧米の高度な工作機械技術を導入せねば、日本の復興が出来ないという信念のもとに、欧米先進国の優れた工業技術ライセンスを精力的に続々と日本の工業界に導入した。 戦争の終わった廃墟から出発し、戦後日本を工業技術立国へ変革するため、日本国内欧米を献身的に東奔西走し多大な貢献を成し遂げた敬虔なカソリック信者であった。その功績は欧州でも評価されフランス政府からはレジオンドヌール勲章を授与されている。今日の日本が工業技術立国となりえたのは、今は故人となられた早坂力先生の強靭な意志と、そのたゆまぬ実行力があったからであるとはっきり明言できるのである。


 事実早坂先生の導入した高度技術機械は日本津々浦々の大手中小企業の物造りの生産工場で実際に使用され、数多の工業製品を生産し、日本国内市場はもちろん 海外にも輸出されて来た。
 早坂先生の存在は一般には余り知られてないが、日本の戦後史のなかで、工業界では知る人ぞ知る燦然と輝いている星である。 早坂先生が居なかったら、日本の工業技術立国化は、二十年は後れていたといっても過言ではない。工作機械士でもある早坂先生は、日本国中を工業技術振興を目的とする講演のため日本国中を行脚旅行をされていたが、北広次郎はその講演の原稿を作る翻訳助手をつとめた。欧米の工作機械学会専門誌を毎月とりよせていて、そこから新技術を発表してる重要部分を翻訳し、先生の講演原稿を準備起草するのが北広次郎の仕事であった。又輸入した先進技術機械の日本国内工場における、来日する据付技術者達と受入れ側技術者達の技術説明操作運転指導講習会などのフランス語、英語、イタリヤ語の通訳のため、北広次郎は関西、中京、関東から北海道の工場まで派遣された。


 早坂先生は日本国内の機械メーカーに技術ライセンスを導入するための、数十頁から時には百頁を越す機械技術仕様書の和訳、又当時の通産省への提携申請用の仕様書翻訳、欧米メーカー幹部が訪日した際の契約交渉ミーテイング通訳などを、北広次郎に委任していたので、かなり多忙であった。 又日本のメーカーのみならず、伊藤忠 丸紅、日棉(当時)等の商社工作機械部に早坂先生の代理で翻訳仕様書をたびたび届けることも仕事の一部であった。 
 
 早坂力先生の指示で行った技術提携先は沢山あったが、その数例を挙げると、三菱造船(現三菱重工)とイタリヤミラノのインノチェンテイ(INNOCENTI)社間の超大型ミーリング・ボーリング(Milling and Boring)複合工作機(石油タンカー船の巨大エンジンケーシングを切削しながら同時に穴刳穿孔する加工機)のアンダーライセンス(under Licence)で日本国内製造する契約 とその前哨となる、室蘭日本製鋼所への第一号機輸入設置稼動開始業務、東芝機械(当時の芝浦機械)と フランス メカビヤ(Mecavia)社からのインターナル グラインデイング(Internal Grinding)機械の設置とアンダーライセンス国内製造業務、大阪機工(OKK)とフランス ラモ(Ramo)社と旋盤技術提携によるアンダーライセンス。



北広次郎:商社丸紅時代のプロフィール


 最初ははジャーナリズム希望であったが、その年からジャーナリズム界では10月1日前の大学生青田買い就職禁止の申合わせが出来たため、たまたま友人達の誘いがあって入社試験のもっとも早い商社丸紅(当時)丸紅飯田)繊維化学機械部も入社試験を受けて翌年4月からの採用決定通知を受ける。

 大学卒業後商社で機械販売担当。しかし当時高度な技術機械は欧米先進国からの輸入がほとんどであって、当時まだ技術レベルの低かった和製機械は、日本政府が国民の税金から支払う戦争賠償か円借款のいわゆる紐付きでもっぱら発展途上国のみに輸出していた。早坂先生の薫陶を受けて鍛えられた経験で、技術導入の逆版で、戦後日本でまだ誰も挑戦していなかった欧米先進国への和製機械の輸出を北広次郎は目標として目指す事を心に決める。


 1966年7月渡英し、世界産業革命発祥地であり繊維工業史の主流であった英国マンチェスターに事務所を構え、戦後日本の初挑戦事業として、念願の日本製繊維機械輸入業務(日本から見ると輸出)業務を開始する。そしてやがてこれを商社傘下の 機械販売兼アフターケヤー管理目的の現地国独立法人化事業案を提議して、本社の認可を得て、米英仏伊などに現地会社丸紅テクマテックス社現地法人を設立し、現地国人のセールスマン、技術者、経理マン、事務員を雇用し、現地国人主体の企業化への転換を図る。当時まだ日系企業では 海外では海外支店や海外出張所方式をとっていて、このような現地法人化政策をとるところはなかったが、この先例を創った以後他の日系企業では商社もメーカーも海外独立法人子会社化がブームになってきた。


 戦後日本復興の牽引車となったのは、繊維産業であったが、これは安価な労働賃金による(綿絹人絹などの天然繊維素材から作る)日本製繊維製品が米国繊維産業界を圧迫してるとして、米国繊維工業界から猛烈な抗議を受けた米合州国議会は米国政府を動かし始め、やがて日米貿易摩擦問題になっていた。日本製繊維製品のボイコット運動も起き、ダンピング法を絡め日本品輸入禁止法制を強行するのは時間の問題となっていた。これは米国だけにとどまらず、やがて欧州諸国も追随線としていた。 北が欧州に渡った頃、日本製品不買運動の起きていた。1966年1967年、北がまだ未熟な段階の日本製繊維機械を欧米に売込もうと四苦八苦していた頃、時の池田隼人首相が欧州諸国を歴上したが、今でも鮮明に記憶してるが、フランスの一流新聞が一斉に報道した見出しは『日本からトランジスターラジオのセールスマン来たる!!』であった。


 しかし当時日本の外貨稼ぎの目玉商品は、まだ繊維製品であった。日本のまだ低い技術力による繊維機械を欧米の繊維工場に輸出しようと言う、北の試みは『石油を中近東に売込もうとするようなものだ』とか『ワインをフランスに売りに行くようなものだ』とか言われ『無謀極まりない無駄事だ!!』と、当時非難する者が多くいた。しかし、その度に早坂力先生の下で欧米製工作機械輸入と技術提携ライセンス製造を促進するアシスタント役を務め、日本各地の工場で欧米技術者と日本人現場技術者に、技術通訳翻訳者として、間に立って接してきた経験が、勇気を奮いたたせ、背中を押される気がした。当時怖いもの知らずでもあったが、『日本人技術者の探究心と研究心は、今のマイナスをプラスに変える時代が来る』と思っていた。それは敬虔なカトリッククリスチャンの早坂力先生の思考法と実践法をたっぷり目のあたりにして来た結果であったからである事は間違いなかった。


 北が1960年代から、1970年代ににかけて、戦後それまでは日本製機械は後進国輸出専門であった流れを、欧米先進国にも水路を開く挑戦を始めたのは、日本孤島国にとっては初めてのことであった。 そ国内製造などがあるれが貿易摩擦の根源となった繊維製品を作る紡績機械織物機械染色加工機械をもって行ったというのは、皮肉に見えるかもしれない。しかし高速稼動による生産性(能率利益性)を向上させられる和製新技術機械は、欧米繊維工場の生産効率をも上げる事に寄与したので、その頃日本政府が欧米に対し繊維製品の自主規制政策をとった事もあるが、技術力の結集の効果も大きかった。日本の新技術機械は、また皮肉にも最初日本国内の繊維工場では、疑心暗鬼で採用されなかった。所が、勇敢な先見性ある欧米工場が先に目をつけはじめ、かなり採用するようになってから、日本の工場の幹部が海外の工場を見学しに出張して来て、和製機械の稼動実態を見て驚いて、日本に飛んで帰ってから採用を始めたという皮肉な珍現象が起きた。国境陸続大陸国と、四方海洋孤島国の相異がここにも現れていた。このような現象はその後、日本では他の業界分野でも起きている。戦後日本は正直言って輸出を始めた当初の産業機械類は故障も不具合も多発し海外工場ではクレームも出て困惑する日々が続いた。商社の親しい先輩がロス支店長時代、今メーカーは言わないが、日本製自動車を十五台ほど試験的にロスの高速に持ち込んで試走テストを行なったが、走り出してから、全てエンジンから煙が噴出し始め、全台がエンコした。米国への日本製乗用車輸出計画はものの見事に失敗し、即撤退を決めた事があった。


 繊維機械も海外客先工場現場の憤懣の声を聞ききながら当分は『おしん』の心境で改善改良を重ねる事を余儀なくされたが、雑貨品消費物資輸出一辺倒時代から、まだよたよた歩きながら日本製繊維機械輸出へ転じ始めてから、それがじょじょに繊維品貿易摩擦の怒声に対する沈静緩和剤消火剤になって行った。日本人技術者が日本製繊維機械を海外現地工場へ持ちこんで、現地工場の能率的生産性を高めることに現場の外国人技術者や工員さと共に日々働いたことは、やがて自然に連帯感とか一体感が生じ、貿易摩擦の憎しみや敵愾心や相互無理解や誤解も溶解し始める現象を感じるようになった。それは当然の成り行きであったかもしれないが、海外国の工場経営者達の日本を見る目もじょじょに変化して来た。


 テクマテックス丸紅社が欧米市場に日本から輸出した繊維機械やその関連機械器機のメーカーは下記の通り。豊田自動織機製作所(トヨタグループ発祥親会社)、ニッサン自動車(合併前はプリンス自動車で現在はフランスルノー社の傘下)、三菱重工(産業機械部)、村田機械製作、大阪機工(OKK)、鳥居鉄工、東芝機械(プラスチック合成樹脂射出成型機)、津田駒工業、河本製機、日立製作所、島津製作所、明電舎、京都機械、和歌山鉄工、福島製作所、豊和工業、網太工業(魚網製造機)等。 1960年代まだ、メイドインジャパン機械は欧米レベルに達していなかったので、発足当初はクレーム続きに悩まされたが、メーカー各社の改造改良努力に支えられ、70年代以後じょじょに欧米市場でも認知され始めた。後にプラント輸出で技術協力も含めて日本の繊維グループメーカーは東レ、テイジン、カネボウ、クレハ、旭化成、東洋紡、大和紡、豊田紡、ユニチカニチボウ{現ユニチチカ}、福井精錬など挙げて行くと際限がない。


 丸紅傘下子会社丸紅テクマテックス社を創立し社長を勤め、軌道に乗ったのを見届け、1980年丸紅を退社し、現地で独立し、技術工業ジャーナリスト兼国際技術貿易コンサルタントとなる。多くの日系企業の欧米進出の指導手助けを行う。新技術ライセンスの国際間紹介導入など。


 又世界中の各国に繊機機械、建設機械、木工機械、病院医療用繊維製品製造機械、合成樹脂プラスチック射出成型機械、タバコ製造機械食品機械、化学機械、工作機械、各種検査機械、など海外販売サービス事業に従事。その後丸紅グループ傘下の丸紅テクマテックス(Marubeni-Tekmatex)社を欧米他海外拠点国に創立し、そのMARUBENI-TEKMATEXグループの社長に就任。


 その後、英国通商商業省傘下の英国北西部工業開発協会の顧問に招かれて、日系工業の英国工場駿出工場建設を初め多くの日本企業英国工場建設招聘に貢献することになる。



北 広次郎の海外文化活動のプロフィール


 日欧文化交流、文化展覧会開催に関与、日英教育交流、日英留学生交換、工業ジャーナリストとして、日本工業新聞依頼により欧州お工業地に関する記事掲載、現地邦字月刊誌に欧米体験エッセイ連載、作詩活動、文化展並びにチャリテイーコンサート開催(東京サントリーホール、銀座ヤマハホール他)、大学日本文化講演講師、工業ビジネス関係講演会講師。
 英国工業誘致協会依頼による日系企業進出調査ミッションへの欧州工業地域事情講演会講師、ドキュメンタリーエッセイ集『ミスターようろっぱ』(新声社)『ヨーロッパからこんにちは』(芙蓉書房)出版。


 もし隙間御時間がございましたら、文化面活動については 
YAHOO・GOOGLE HOTMAILの検索欄に柴原徳光なる筆名と又は別に北広次郎の四文字を記入してクリッされますと若干の追加解説が見られます。
(作詞家筆名;柴原徳光) (東京外国語大学校歌作詞等)

北 広次郎(詩人名:柴原徳光) (英国)


Yours faithfully.

Very best regards


Nori Kojiro Kita
Nkita Consulting(UK/EU)
norionplanets@gmail.com
Skype Name: norikitaskype77
 

2012年11月26日(月曜日)更新

第39号
『日本に今必要なのは歴史教育革命、国家革命、国家企業会社』
   副題『法人設立の重要性と国際特許』

 『北広次郎の国際特許への取組歴』  (パート2)


 ここで再び 著作権から 最初の国際特許の件に戻ります。
  国際特許の多くの事例を学習研究せざるをえなくなりました。また新案特許や商標権についても、さまざまなケースにぶつかりました。国際市場においては、単なる技術仕様や売った買ったの価格問題だけではなく、 特許の知識認識も重要であると言うことも学んできました。  そしてついに大国際特許係争を体験する事になります。それは 私は丸紅の頃ロンドンの最高裁法廷に2年かかって20回余り、チェコスロバキヤ国営機械公団に対抗し、英国最大の民間企業顧客ICI(IMPERIAL CHEMICAL INDUSTRIES)その傘下の大手繊維グループ・キャーリントンバイエラ社とニッサン自動車、丸紅株式会社を 私が束ねて代表し、戦後日本最大の特許大係争を行なわざるを得ない羽目に直面する事になりました。


 そして実質勝訴しました。これは敗訴すれば、日本の戦後最大の莫大な賠償金が絡む大裁判で 私が世界市場に始めて売り込み欧州の工場で,量に使用され始めて来た 当時ニッサン自動車繊維機械部製造の水噴射式織物機械に関する特許係争でした。  敗訴の夢を見て冷汗を掻いた夜が幾晩幾朝かありました。ロンドン最高裁判法廷は、毎回朝9時から夕方5時まで出廷させられました。この裁判の準備のために、弁護士に提出する書類やデータは、こちらがずべて収集し提出しなければならず、普通弁護士(SOLICITORS)、法廷高等弁護士(BARRISTERS)などと、打合せを重ねると同時に、過去現在の法令や判例も勉強する必要に迫られました。以後商社メーカー間では 国際特許部長という異名がつけられました。


 ここで日本と欧米の間の特許に関する制度の大きな差があることに気がつきます。日本では特許新生を扱うのは特許弁理士ですが、海外には特許弁つまり日本で言う特許弁理士は、欧米では特許弁護士に相当します。特許弁護士と言うのは、他の弁護士より欧米では地位が高い。なぜなら, その分野はあまりにも 広くて深い専門知識と経験を要しますことは、他の分野の弁護士さんの数倍以上です。これは人間を扱う医師と 獣医にも似て、どちらがより広くて深い知識訓練が必要かと言うと、後者です。英語圏では普通の医師をドクターというが、普通の医師の上に立つ監督主任の医師のことは ミスターといい、 大きい総合病院内の 専門科別表示にも DRが数名 そのトップである主任部長医師の敬称はMR.で記載されて居ます。


 弁護士にしても、普通弁護士はソリシターと総称されていますが,法廷に立って発言できません。法廷で発言できるのは高等法廷弁護士であるバリスターのみです。その点でも、日本の司法制度とは、大違いです。日本の司法制度は、明治維新以後 欧米の六法全書の直訳採用からはじまったといわれて居ます。 ですから いまだに明治時代が そのまま継承されてる法律が、そのまま日本にのこってると言われてるものもあります。JIS(日本工業規格)といわれる規格基準にしても、電気規格にしても、国籍法にしても明治が、そのまま残ってる部分もあるとか、言われます。


 その後日本の大中小の機械メーカーさんからの、国際特許ケースや 日系企業の現地会社工場設立に際してのへ稟議をおこし、戦後商社初の繊維機械合成樹脂機械販売サービス専門の丸紅傘下の海外現地国ごとの子会社丸紅テクマテックス(インタネット索引参照可)を英国に創立し、初代取代表取締役に就任し、更に丸紅テクマテックスフランス会社、丸紅テクマールイタリヤ会社など現地法人を次々に各主要国に創立し、役員を兼任しました。


 更に英国通商工業省傘下機関の英国地方工業開発協会委員会の顧問に任命され、日系企業工場建設の英国誘致促進活動に従事しました。 マーガレットサッチャー首相時代、ニッサン自動車英国工場建設を皮ぎりにして、多くの日系英国工場建設のアドバイザーとなり、英国地方政府、中央政府の返済不要工場建設支援補助金(GRANT)制度を活用し、日系企業現地調査使節団への講演、工業新聞産経新聞、雑誌社などから、工業ジャーナリストととして、英国工業事情ルポ記事を書くように依頼をうけ、掲載されて来ました・


 2012年現在欧州のEU加盟国は27ケ国在りますが、特に日系工場進出数が圧倒的に最も多いのが英国です。1960年代70年代前半は、まだソニーもホンダも海外では 発足仕立ての、ほとんど無名の小メーカーでした。幕末明治維新以来、世界産業革命の発祥国英国は、日本にとって遠くて近い島国です。


 現在英国にある日系工場は、ニッサン、トヨタ、ホンダ、日野、ソニー、三菱電機、日立マクセル、シャープ、富士通、ブラザー、サンヨー、旭ガラス、ノリタケ 東レ、日本本板ガラス、コマツ、三菱グッドイヤータイヤ、紀文カマボコ、YKK吉田工業等々、製造業以外で商社、銀行、証券会社、保険会社、日通、日伸運輸、旅行会社、教育学校 立教、頌栄ウインチェスター女学院、前田学院、など枚挙にいとまがありません。


 私が1960年後半から 国際特許にかかわって以来、世界情勢も変化しました。まずEUの統合、その起源的思想はアレキサンダー大王のインド遠征から始まり、ユリアス・シーザーのローマ帝国の拡大、東ローマ帝国、十字軍遠征、バイキングの南下、ハンザ同盟、バチカンと結びついたハプスブルグ王朝の確立、ナポレオン征服戦争ロシヤ遠征、第一次世界大戦、四世紀半続いた欧州覇権のハプスブルグ王朝の消滅、第二次世界大戦と 欧州統合は 欧州の長い歴史的な夢でしたが、第二次世界大戦までは、ハンザ同盟を除けば、すべてが軍事力に頼っての征服統合でした。しか第二次世界大戦終結、武力、軍事力に頼らない、任意加盟契約制欧州共同体EUが誕生しました。その初歩的お手本は、ハンザ同盟にあったとも、いえます。 EU(EUROPEAN UNION) は最初EECと称していました  英国はEUに加盟するのが、遅れましたが、それには歴史的理由があります。EEC/EU以前に英国は、地球上の英国旧植民地を束ねるEFTAと言う同盟協定を結んでいました。 そして英国はEUに加盟しましたが、通貨に間しては英国ポンド(STG.£=GBP=BP=UKP)を変えず、ユーロ(EUR=ユーロ) 通貨には加盟していません。こういう独自性も認めてる所がEUの特質です。


 つまりEUが 国境を越えて地域共同体連合組織を果たしました。このパターンは やがてアジヤ豪州連合(ASAU)、北中南米連合(AMU), アフリカ連合 (AFU)になるでしょうが まだまだ遠い道程です。


 しかし 欧州はEU27ヶ国個々別々にそれぞれの国の特許庁に特許申請をして、特許維持料を個別に払い続けねばなりませんでした。だが、 EUに統一されてから、今は特許申請はEU一回の申請で sukunakumo 17ヶ国から27ヶ国の特許がとれてしまうことになっています。 従来日本の場合 先ず日本の特許庁へ申請し、次米国、そしてEU欧州へというパターンでしたが、今は国際特許の専門家は 先ずEUへの申請からはじめることが 最も得策で経済的となってきています。 そして会社設立は ロンドンからはじめるがいいとされています。それは法人税が日本より安いということもありますが、2012年エリザベス二世女王戴冠60周年式典、ロンドン・オリンピック・パラリンピックの成功でもあり、不動産建設経済価格も堅実であり、政治的に英国は安定してると言うこともあります。 英国はEUに、加盟しながらも、通過だけはユーロに変えず、英国ポンドを守り独自制を通してきてることは賢明であったという経済専門家もいます。


 エリザベス二世女王から チャールス皇太子とダイアナ妃の間に生まれウイリアム皇太子がキングに即位する日も刻々と近ずいています。英国は王室外交を、いい意味で実にたくみに活用しています。同じキリスト教のカトリックから、英国国教のプロテスタントに改革したヘンリー八世の娘であるエリザベス一世女王の即位期間は63年でしたから、現今のエリザベス二世女王が、エリザベス一世女王の即位期間を超えるのは、ほぼ間違いないでしょう。 英国の歴史の変遷のなかで、数々の法制やスタンダード(規格基準)が制定されて、国際基準現人類は、今恩恵を受けています。 特許法が生まれ 知的財産権が発祥したのはヨーロッパで、商業工業活動の権利の保全同盟意識はの 条約、契約、盟約の国際的法文化が積み重ねられた欧州でこそ広範囲な国々を束ねるEUが結成される素地があったと言うことになるでしょう。ここでも、又感じることは、国境陸続大陸民族と、四海八方海洋孤島民族の、歴史教育の局限の相違点であります。 


 薩摩藩の密出国留学生が 幕末に英国を主体にして、欧州に渡り、貪欲なまでに吸収してきた欧米の文明文化が、近代、現代日本の建国の礎になったことを、再確認する必要があります。そのためには、日本の戦後の歴史教育を大革新せねばならない。最近特に 日本孤島国では 現行の政治への不安がはびこる余り、やたら『維新』『維新』を流行語にしてるが 幕末明治維新に比べるとその次元の差や、ほとばしるマグマ的エネルギーの差に比べると 単に口舌の徒である 政治家ならぬ野合政治屋の唇から出る『維新』の掛け声は、空ろでむなしく響くのみで、またかです。


 私は1960年代から、欧州に在住し、日欧間の歴史教育法の民族生活環境の中でのデイシプリンとモラル的感覚差に気がつき愕然としました。欧州では古代中世近代の街の環境の中に現代があり、世代が変わって交代しても、新世代でも歴史環境の中にそのまま、現代でも生活しています。それだけ 歴史を身近に感じている生活をし、歴史教育も身近に思っているのです。日本の歴史教育は中味よりも背景よりも年表集約羅列型です。 その較差に気がつかないのは、特に戦後日本の年表羅列型歴史教育、とりわけ世界史教育にあることに、真剣に革命を唱える政治家官僚教育者が不在であることに起因しています。 鎖国日本から幕末明治維新を起こした時の『維新』と 今現在の日本の口舌の徒の政治屋さんが、軽佻浮薄な流行語で唱えてる『維新』では その軽重差は歴然としています。『維新』という前に、何故『革命』と言えないのか? 『明治維新は』は『明治改革』でなく 真の『明治革命』だったのです。政治も経済も『革命』でなければ、真の再生復興の原動力になりえない。片や英国王室型ロイヤル外交めざして、日本にも英国に似た世界最長の歴史がある皇室があり、英国王室とならんでロイヤル外交を行うにふさわしい環境が整っています。世界の二大王室国は英国と日本です。 日本国も、英国と同じ孤島国です。極めて似てる歴史があります。世界産業革命の発祥国、英国は世界一の発明特許技術大国でした。


 今後の日本再生の道は、国家を挙げて、発明特許大国になることが、日本の生きる道です。それには 国家が資金的支援して、大企業 中小企業、個人の差別なく、国際特許取得を国家事業として行うことです、 それから 何でも民営化を唱えて来た方針を 改めて、逆に不況産業の国営化を実施すべきです。 それと国家国営公営でなければ出来ない海底メタンハイドレート開発や 火山利用の地熱発電とか、大資本を要する国家的事業もまだまだ多くあります。 与野党談合して税収入の不足に対しての、マンネリ赤字国債の積み重ねをしていては、国家の財政経済の根本的復興改善には繋がらない。 それを抜本的に改良するには、税収入依存症には、見切りをつけて、思い切った国営公営事業による主導的能動的中央政府、地方政府の収入源を確保する革命を 興さねば国家社会は、変らない。 その お手本は 世界産業革命の発祥地の英国の歴史にあります。民営から始まった企業の国営化を行い、そして また民営化を繰り返してきたのが、英国です。明治維新直後、薩摩藩出身の北海道開拓長官黒田清隆は、米国政府から派遣され、米国型民営起業論政策を唱えていた米国政府派遣のケプロン特使(元米国農務省長官)と激しい議論をして対立しながらも、当時の日本の基幹産業などは、まだ民間社会資本に依存していては、いつになったら起業できるか分からないと主張し、鉄道、通信、郵政、炭鉱等基幹産業工業を興すについては、国営化事業としてスタートに踏み切ったのでした。


 国家の大改革を要する時代には、強いリーダーシップが必要です。これは どこの国でも世界共通です。 最近の日本孤島国の政治家ならぬ政治屋は、たしかに二世三世世襲家業国会議員とタレント議員が、極端に増えてるのは、世界で日本独特の現象です。これはかなりゆゆしき問題です。二大政党の片方の幹部たちが、苦渋の言い訳してるのを見てるのも 痛ましくむなしく響いている。そのスピーカーも内心ではやはり、国家の政治のためには、かんばしくないと思ってる顔色がにじみ出ている。国民にそれが見えている。 最近の日本孤島国の政には、リーダーシップがないまま、口先だけ、国家のため、国民のため、維新維新と言うが、幕末明治維新の時の志士のような、身命を賭して闘う迫力は全く感じられない。  いまや政治家たる者は 国内政治家だけではだめで、国際的に通じる政治家でなければ、政治家といえません。
 欧米の政治家は特に 閣内の政治家であり同時に国際的な政治家です。 日本イはそういう真の国内国際政治家が 出たためしがない。又ういう政治家が どの正当にも不在です。だから島国内の村落政治屋レベルでしかない。だから 一年交代首相ばかりです。海外から日本 永遠に赤字尻拭いを続行するしかない政治では、国民はジリ貧に向かなないのです。  私は国営公営営利企業公社を創成し、雇用を増やし 任意制で退職定年者の知恵と経験を生かすシステムを創り知能生産性集団を設営し、国営公営企業公社が 地方税の50%負担し族を行うシステム構築を興すべきだと考えます。少子化高齢者社会に入ったら、そのような革命システムを構築しない限り、国家が成り立ってゆきません。ですから毎年赤字国債発行だけをし繰り返し やり続けるだけではいたちごっこのモグラ叩きで、全く能がないので、私は公営公営営利公社のさ早期創成を 強く主唱したいのです。その方法はあります。 高齢者の知能財リソースを生かし;経験ノウハウを総合有効活用することです。


 幕末、摩藩密出国留学生が英国にわたり、欧米文化法制工業技術などを吸収し、明治維新革命開化の推進に貢献したエネルギーは、欧米での生活と文明を実体験した基盤が身についていたからこそ、培われたものでした。徳川幕府の御禁制を破ってでも、英国へ密出国留学を黙認した薩摩藩島津公は欧米を賢察していました。幕末 薩摩藩は薩英戦争から一変して、薩英同盟を締結し、英国の技術機械を導入し、大砲製造工場、日本初の綿紡績工場を造り、初期の水力発電所までつくって、電燈まで灯していました。そのころ英国マンチェスターのプラット・ブラザーズ社から綿紡績機械を輸入し、英国人技術者七人が鹿児島に招聘されてきて滞在していました。


 後に日本が技術工業立国になったすべての源は、薩摩藩の鹿児島港にあります。そして 世界産業革命発祥地マンチェスター・リバプールに繋がっていました。ところが これが 宿命的因縁で、実は 後のトヨタグループに 繋がってゆくのです。トヨタグループ始祖であるの創立者は豊田佐吉翁ですが、佐吉翁が発明した自豊田式自動織機が ロンドン万国博覧会に出品展示されました。そ・ブラザーズ社が豊田佐吉翁の自働織機特許に支払ったロイヤリテイーが、トヨタ自動車発足の資本金になったのです。


 ちなみに このロンドン万博にもう一人の日本人が 人工養殖真珠でつくった五重の塔を出品しまして世界に注目されました。 三重県志摩半島志摩湾で、世界初の養殖真珠の技術開発に成功した 御木本幸吉翁でした。佐吉と幸吉で、その後の日本の工業産業化を推進進する希望の星である二大チャンピオンの二キチ(ニ吉)となったのでした。


 2012年ロンドン・オリンピックでレスリング女子55キロ級にて3連覇目の金メダルを獲得し、国民栄誉賞を授与され、御褒美に地元御木本のゴールド・パール・ペンダントを戴きましたのがヤマトナデシコ吉田沙保里選手です。御木本幸吉翁も吉田選手も双方 ロンドン万博とロンドン ・オリンピックという大国際イベントは、すべてロンドンに結びついていますのは、単なる偶然とは思えない歴史的宿命の因縁の日英の絆で結びついているとしか私には思えません。工業産業もスポーツも技術力、先を見抜く洞察力、判断力、耐久力、努力です。薩摩に示現流という剣法があるが、時代を超えても、正にその伝統的神髄の精神に相通じるものがある。


 そのその嚆矢として、幕末に先鞭をつけたのは、日英同盟を結んで、英国に留学生を送り込み、また 産業革命酣わの英国から技術者を招き、封建制鎖国日本に国家大改造革命Miracle Revolutionwoを興す桜島のマグマを起爆剤にした薩摩藩でした。 そして日英同盟を結び、これに長土肥が呼応してゆきます。 


 繰り返しますが、英国と日本は共通点があります。それはロイヤル外交です。そして英国は 世界産業革命発祥の地であリ蒸気機関など、さまざまな革命技術がありました。日本は戦後 いっとき、いちどは工業技術立国になりましたが、しかし翳りがあります。工業産業には民間民営が出来ることと 、国家国営でないと出来ない大事業に向かないことは 明治維新薩摩藩出身の黒田清隆がいみじくも、北海道開拓長官の時に唱えていました。今後の日本経済力の再生・活性化化には、新発明技術とか新発見鉱脈など、国営企業を創成してゆく以外にありません。その場合に気をつけねばならないのは、東電方式の民だか国営だか、最初から曖昧な企業体を作ってはならないことです。国営公営企業は 国民への奉仕隊サーバントであるというデモクラシー哲学の理念意識の涵養・養成から初めないと、日本はまだ まだ中途半端国家です。 英国警察ではNOーTORERANCE 予防主義方式を前から採用していますが、日本の警察では変なストーカー事件、俺俺詐欺事件、尼崎鬼女連続殺人事件など、後手後手の後追い事後処理型から、一歩も出てない段階で、予防主義には程遠い感じです。 日本孤島国内も、犯罪オンパレードのCRIMINAL DEPARTMENTSTOE化してきました。 その昔、戦後日本国は国連統計でも、犯罪検挙率世界一の優秀な警察による安全安心国家といわれていた時があり、日本の警察の信頼度が高く、日本省庁の官僚は世界一優秀で、官僚護送船団方式の日本丸経済は不沈艦船団であると豪語してたいた時代がありました。今現代の若い世代の日本人は、そんなことを信じられないというでしょう。しかし、戦後の一頃、自画自賛だったのか、張子の虎だったのか、買いかぶりだったのか、奢れるエコノミック・アニマルといわれことがありました。あれうたかたの夢まぼろしの今昔物語なのか。
 あの頃の日本はどこへ消えてしまったのか? あれは砂漠の蜃気楼の幻影だったのか。 そして失われた20年も通りこして30年にもなろうか?と言うところで、 明治維新革命の原点に戻って、出直すしかない時点に来ていることを、日本国民全体が自覚せなばならないのです。 歴史教育の革命から興して行かないと、日本国は変わらない。


 今の日本国では、歴史教育革命を真剣に起こさないと、何処かが変で、何かが欠落している空気が漂っています。『明治維新』は『明治変革』でもなく『明治革命』であったのです。その精神と実践行動を 正しく教育し 継承せねば、今後の日本孤島国は変わらない。『明治維新』は 今の政治屋が軽く、単なる掛け声だけで曖昧語の言葉の『維新』ではなく壮大なる『国家改造革命』であったと 言うべき歴です。そういう歴史上の出来事だったという認識革命を 今後の歴史教育で、焦眉の急として、次世代に植えつけて行かないと、日本経済力再興の人的リソースと国家的エネルギーが生まれて来ない。さもないと 日本国の明日にとって、悲惨な最大の損失と取り返しの効かない禍根になることは明白である。 


 又日本国にとって、今日こそ発想の大転換と、明治維新革命の歴史の見直しと再認識が必要とされていて、国情は戦後最大の逼迫した瀬戸際状態に来ていることを心底から感得し、国を挙げて全体が意識革命に目覚め、行動を興し実践しなければならない時期に直面しているのです。


 かつて日本孤島国では 明治維新直後, 廃藩置県が実施された歴史があるが、廃県置州という国家大改造法もありうるのではないか。この先例はやはり、英国にあり、マーガレット・サッチャー政権時代、真中の政府は不要として、グレーター・ロンドン政庁、グレーター・マンチェスター政庁を廃止したことがありました。 つまり 都庁府庁都府議会を全面廃止しました。 英国の正式な名称はユナイテッド・キングダム(UNITED KINGDOM=連合王国)です。 すなわち歴史的に イングランド、スコットランド、ウエールス、北アイルランドの四つの王国で成り立っています。


 北海道州議会(HKU)、東北州議会(THU), 関東州議会(KTU)、中越州議会(CEU)、中部州議会(CBU)、関西州議会(KSU)、四国州議会(SKU)、中国州議会(CGU)、九州沖縄州議会(KOU)の9州制にする地方分権化の方法も考えられないことはない。 9州制にして、それぞれの州内市町村を州議会州政府に直結させる。 中央政府は国家安全保障や、国防、国家外交など国家的中央行政に専念する。これは地方分権化の推進のためにも有効。そして首相全国民公選制とする。その場合二つのやり方があります。 米国方式のように、先ず州単位で投票して、最後に9州の結果に従うか、それとも国民総投票制にするかです。 9州制を5州制にすることも 場合によっては4州制にすることもありうるが、国家大改造の方法を考え、国営公営企業を創成せねば、国家改革革命により、経済再興力に国民的エネルギーを注ぐようにしないと、どこかの国のシンクタンクが、予告してるように、2030年には、日本国はLEVEL-2の経済国に、2050年にはLEVEL-3の小国に低落するといわれてる通りになってしまう危機感が当たってしまうのではないか。


 この予想を、日本孤島国人は、現在はお腹の中ではそんなことはないないと、他人事のように思って、余り深刻に考えてはいない。要するにノー天気すぎる。『明治維新』 『明治革命』の原点と初心に戻って、歴史を学び直さないと、斜陽没落のCLIMACTERIC CLIFF(危機の崖)が見えてこない。
 

2012年11月21日(水曜日)更新

第38号
 『日本に今必要なのは歴史教育革命、国家革命、国家企業会社』
   副題『法人設立の重要性と国際特許』

前説       

 海外二酸化炭素排出CARBONCREDIT取引権設定獲得、ECOWING装置製作、VEGEPLANT-BOX製作、リチユームなどレヤメタル鉱区権獲得などを総合的に扱うHOLDING COMPANY設立を真剣に考えています。
 今ここには書ききれない他の国際的プロジェクトも含みますが。とにかく、もう国際的展開を考えないと、日本市場は限界があります。しかし、『歴史教育革命』をおこし、知恵を絞り『国家革命』を興し、国営企業を起こせば、日本国の経済力、国内政治力、外交政治力の活性化の道はまだあるという事は、幕末から大政奉還、明治維新当時の薩摩藩の賢策の足跡をたどってみると、そこに歴史的ヒントがあります。



 私にはいまいくつか新技術国際パテントの製品化の依頼案件がもちこまれていますので、総合的に考えています。とにかく製造部門販売部門を同時併行的にスタートさせないことには、日常運転経費の掛かる企業は回って行きませんので、複合的経営を考慮せねばなりません。

 いまXXXX国政府のCARBONCREDIT取引権設定にからみ出てきてる風力発電の大量採用計画プロジェクトにしても、法人化の必要性は必至とされています。それに先方は、ECOWING風車発電は、大型も直ぐ導入出荷でき体制にあるものとして捉えがちであり、こちらは慎重に大型は実験に時間があかかると言う表現をしていますが、しかしそんな言い訳ばかりしているようでは、こんごのもう国際競争には勝てません。従来の日本型のオーソドックス企業立上げ発想はもう現代には時代後れです。発展途上国が、もうここまで経済力技術力もそこそこレベルアップしてきたこの現実は、かつて日本がエコノミックアニマルと言われても、独り相撲で伸びてきたあの時代とは、全く異次元時代に突入してること、その時代的環境差の見えていない政治家官僚財界一般人が、八方海洋孤島国Jのネオ鎖国時代にオタクしています。

 とにかく昨年からさまざまな作戦を熟考して来ましたが、今後の国際市場のターゲットを視野に入れ、新技術工業国際的プロジェクトの複合的ビジネス組織の創生を目途とするに、最善なる一つの選択肢として別メイルで、(パート2)新作戦としての提案をいたします。



 『北広次郎の国際特許への取組歴』  (パート1)

 私は戦後日本の工業経済力の草創期から、新技術に基ずき海外での市場開拓を担当してきました。その間海外で多くの国際特許問題にぶつかりました。
 1960年代70年代初期、日本にはまだ海外では『欧米特許の物真似猿真似コピー屋』とまで言われて来ました。ある晩、私は英国の片田舎村の織物工場の近くにあったパブの二階の部屋に宿泊していて、一階の大衆酒場の中で私は独りで夜飲んでた時に、周りの飲み客達に囲まれて私が日本人だと知ると、一斉に飲んだ勢いで非難気味に口々にそういわれました。
 しかしその中に、ただ一人の、日本を知る英国人がいて『終戦後の今の日本はそういうイメージを海外では一般に持たれてるが、私が朝鮮戦争時代軍隊にいて日本の呉に駐屯していた事があるが、それはちょっと違う』と反論し庇ってくれたあの場面を今でも思い出します。

 これは私が大学出て総合商社丸紅機械部に入社して、1966年以来からの英国駐在時代、私の輸出したメイドインジャパンの機械の技術的メカニズムやそこに使われてた装置部分が、欧米メーカーのあちこちから、特許侵害のクレームが来はじめて、『出る釘は打たれる』を文字通り体験しました。 

 あるとき、1965年英国工場から日本製大型捺染機械の初注文を貰って喜んだのもほんの束の間の事で、欧州の同様な機種のメーカーやその代理店から、特許侵害のクレームの手紙が舞い込み、既に関西のメーカーさんには製造発注をしてしまっていたのですが、特許侵害クレームに恐れをなした係長上司に、『この注文は、多少の損害は覚悟で一刻も速く降りた方が安全で、被害が小さくて済む』と言われて、泣く泣く手を引かされた経験がありました。

 当時戦後の日本には、国際特許の専門家が皆無状態の時代でした。『国際特許裁判にかかれば、裁判費用も掛かるし、莫大な損害賠償金をとられる』と言う自らの思い込みの恐怖観念しか湧いてこない日本人がほとんどで、『触らぬ神に祟りなし』『三十六計逃げるにしかず』『国際特許と聞いたら もう無条件に下りるにしかず』の一点張りでした。こんな大型機械の注文を初めて先進国の欧州からもらった私は、実に関西のメーカーさんには、深々頭を下げて、ばつの悪い思いで、一旦出した注文のキャンセルを受けてもらっは、腑に落ちませんでした。

 後に欧州に駐在してから、さまざまな日本企業からの欧米特許申請案件を依頼されて申請を請けおって各国別申請手続きを行い、欧米の特許専門弁護士とも共同研究調査し、またロンドン・ストランドの最高裁法廷に出廷し、国際特許裁判係争に立会いましてから、気がつきました。『三十六計』の論法で折角もらった注文を自らキャンセルし、辞退する必要は全くなかった事を知ったのでした。

 この事例は、今までこの英国工場が、長年使用してきた古い機械を新機に入れ換え時しようとしてたのですが、それまで継続して注文をもらって来ていたことから、欧州機の地元販売代理店が、お得意さんだった工場が、想定外のダークホースであるメイドインジャパンの布捺染機械に発注したことを知り、驚いて欧州メーカーと打合せ、パテント侵害をほのめかして脅しをかけてきてたのですが、戦後当時国際特許に無知であった日本孤島国内では、『国際特許抵触侵害してる』と言われただけで『無条件降伏でおりるしかない』と精査もせずにすぐ最初からお手上げをするのが精一杯でした。


 ここで国際特許と類似共通性があるので、音楽著作権にまつわる私の体験的エピソードに触れさせて戴きます。戦後日本にはまだ音楽著作権だとか、映像権肖像権だとかなんて意識も一般には無い時代でした。私の高校の一年先輩ん宮澤氏が、早稲田仏文科に居た時の恩師が西条八十先生で、その頃戦後日本に初めてJASRAC〈日本音楽著作権協会)が創設され、その初代会長に就任したのですが、宮沢先輩は卒業時に『西条八十先生に随いて行く所なら、どこでもいいや』という軽い気分だけでJASRACに就職しました。ところが本人は、JASRACって何をする所か全く何の知識も無かったままに、セミナーの延長として、随いて行ったといいました。


 後にJASRACの国際部長になった宮澤先輩が、ロンドンで開催された音楽著作権公演権世界会議に日本代表として来る事になり、『自分は英語が心もとないので、大会期間中は君が同席して脇に一緒についていてくれないか。頼む。』と言われて、3日間随行し会議に立会いました。又その間に英国音楽著作権パーフォーマンス権協会会長グリーガードさんとも食事をしたり、その後私が英国マンチェスターのポップアーテイスト達と作詩作曲共作やレコーデイングをする時にも、音楽著作権に関する指導をうけるようになりお世話になるようになりました。


 私は中京地区の交響楽団指揮者田中瑞穂氏(インターネットで索引して見て下さい)が欧州はブラッセルに駐在滞在中の時代に、私の作詩約12編に作曲しています。それかから戦後、東京外国語大学新校歌一般公募に、私の応募作品が特選に選ばれ採用されました。北広次郎(エッセイスト名)の詩人名は柴原徳光でインターネット索引出来ます。学校歌の作詩は他二校にもあります。

 ちなみに、その応募詩の作曲は後にJASRAC会長になった、芥川也寸志氏(作家芥川龍之介の子息)がやることになっていたのですが、その直前になって元宝塚出身の女優草笛光子夫人との離婚問題が突然発生し、芥川也寸志氏が日本作曲界の大御所であり初代日本作曲家協会々長清瀬保二氏(愛弟子には世界的作曲家武満等がいる)に頼んで選手交代になりました。


 清瀬保二氏につきましてはインターネットでご参照下さい。大学卒業時にコロンビヤ作詞課からお誘いの声が掛かったのですが、私は大学卒業後は海外で仕事をする希望でしたので辞退して商社に入りました。
 これは後になって知ったことですが、もしコロンビヤに就職していたら、阿久悠さんと丁度同期入社で、ご一緒にコマーシャルソングなど制作のお仕事からやらさせて戴いていた事になっていたはずだったようでしたが。当時私は海外志向だったので違う道を選びました。



 ここで今なんで、国際特許から音楽著作権の話しになったかと言うことの説明をしなければなりませんかと思います。実は国際特許と音楽著作権は全く共通性があるからです。

 JASRACはは音楽における特許権を管理するところと言えます。宮澤JASRAC〈日本音楽著作権協会)国際部長は、その後英国音楽著作権パーフォーマンス権協会グリーガード会長に、日本が地理的に香港に近いと言う理由で協力を依頼され、当時はまだ英国植民地だった香港での音楽著作権の確立に共同作業をしていました。そして音楽著作権世界大会を北京で開催する所まで漕ぎ着けました。
 
 当時北京政府は、世界音楽著作権協会には『まだ時期尚早なので、加盟までにはもうしばらく猶予時間を戴きたい。』といっていました。その理由は『十三億以上と人口が多い共産社会主義国家中国では、一枚のレコードがヒットすると、一晩で超富豪アーテイストが続々と誕生することになるので、今の中国国家体制にはふさわしくないからである。』と言って、直ちに加盟ことには消極的でした。改革開放政策に転換し、99年間統治してきた後に1997年英国のマーガレットサッチャー首相政権が中国へ香港返還を実施してから、たった十数年後に経済大国に躍進し、GDPで日本を抜いて世界第二位となリ、金保有高でもアメリカを抜いて、ゴールド保有高世界一位になった今と、当時とはまるで隔世の感があります。当時私の先輩が英国に依頼されて、香港における音楽著作権確立と著作権侵害摘発法を指導していました。そして北京会議を開くまで啓蒙運動をしていました。


 戦後出来たばかりのJASRAC〈日本音楽著作権協会)が一体何をする所か、まったく何の知識のかけらもないままに、ただ西条八十先生の秘書代わりにくっついて行った先がここだったのです。本人は就職したって感覚ではなく、西条八十セミナー塾が、早稲田から別な都内ビルに移転しただけだったに過ぎなかったと言います。しかしそれからやった事は、キャバレーやバーかららパチンコ屋を主に夜回ってあるき音楽著作権とは何たるものかということから語り始め、著作権料を回収しようとするのですが、どこもかしこも『あほな事いいなさんな。わしらはちゃんと店で金出してレコードやテープを買って来て、毎日毎晩かけとるんや。なんでまた後から音楽かけるたんびに、使用料を払わにゃならんのや?そんなの二重どり、三重どりどころか、ぶったくりやんか。帰れ。帰れ。そんなの、誰が払うんじゃい。』と毎晩行く先々の店で、どこでも追い払われる事の繰り返し。西条八十塾が、高利貸しに雇われたローンの借金取立屋みたいになってる事に初めて先輩は気づいたのでした。どこへ行っても、押し売りよりも好かれない厄介者扱いで追い出される。バーなんかでは女将が『うるさい。しつこいわねえ。警察呼ぶわよ』なんていう。こうなると説得は不可能に近いと気がつく。やがて、警察と弁護士と裁判所の協力が不可欠だとするようになる。その時の苦い経験が、今度は英国の協力要請により香港で生かされたのでした。

 中国人のインダストリアル・ファイナンス専門の先生が『2010年過ぎた今でも、一般の中国人には特許権とか著作権とかいう概念意識が全く無いのが普通です』と言ってる話しも聞きました。
 

2012年09月05日(水曜日)更新

第37号
 『日本孤島国の政治屋時代はもう終末期に来ている。変革しかないであろう』

 2008年秋、サブプライムリーマンショック問題がおきる前のロンドン・ゴールド〔AU〕相場は、トロイオンス当たり680米ドル前後でした。2012年8月31日PM Fix価格がトロイオンスあたり1648.50ドルです。

 日本孤島人はサブプライム・リーマンショック以来世界に目が開いていない。今回、私は故国日本を振り返り、辛口の発言をせねばならない事を残念に思いつつ、切歯扼腕してるのです。

 2008年のサブプライム・リーマンショック以来、わずかなゴールド〔AU〕買いを口座預金してた方が今では世界90ヵ国の人々が、このロンドンの口座にごく小額でも、 AU口座を開設して任せているシステムがあります。いわばAU口座のグラミン銀行版とでもいうべきもので、本来限られた数の大きな金力のあるメンバーしか参加できなかった、ロンドンゴールド・シルバーの相場取引に、多数の小口資金を集め共同資金組合方式で、相場取引に参加して、その得た利益を配当分配しあうというAU口座を世界で最初に作り上げたものです。

 自分の持つAU口座内で現金からゴールドへ、ゴールドから現金へと、毎日毎週相場の動きを見て電話FAXメイルで自由に換える指示を出すだけのことで、この自分の持つAU口座内で、利殖が出来るという画期的なシステムがあり、英国のエリザベス二世女王がビジネス革新賞を授与した理由であります。そしてこのAU口座の中にある利殖は無税です。 ですから世界の人々の中には、ただそこに入れとくだけでもっとも安全かつ確実な財産管理遺産管理になる便利な所だと、ただ預けっぱなしの富豪もいると言うことです。ただこれは株のように変動しますから、日々の経済情勢を観察していて対応することも必要ですが、ただ株や債権と異なるのはゴールド〔AU〕の裏付けが主体となってることです。

 日本人はゴールド投資のお話しになると、過去に根拠の全くない詐欺話があり過ぎた為に、つい味噌も糞も一緒にしてしまう、あるいは玉石混交してしまう、ダイヤモンドもガラスにしか見えないという傾向がありますが、このロスチャイルド資本の入ってるAU口座はエリザベス女王の表彰を受けたものですから、詐欺話とは異なります。

 このような世界初のケースAU口座まで、その詐欺話の類でしか見えないというのは、あまりにも日本人は研究不足です。今は新興国インド・中国・ブラジルからのAU口座開設者が急増しています。

 ここから、私は余り日本では戦後伝えられていない歴史の真実に、あえて触れる事にします。長年このことはタブーみたいにしてきましたが、しかし戦争を知らない世代が増えた今日、こういうここともあったという歴史の事実は、事実として記録しておくことを誰かがやらねばならないと思うからです。戦後日本の世界史教育が、受験用羅列年表教育でしかなかったこと、学校では教えてもらえなかったことが、1966年から海外に出て以来、世界の人間関係史を現地現場であらためて体験学習することで、目から鱗が落ちたことが多々あり過ぎました。


 2012年は前世紀から三度目のロンドン・オリンピックの年でしたが、もう一つ忘れてはならない事は、エリザベス二世女王が即位してから60周年を迎えた記念すべき年でもありました。 一口に60年と申しても、英国の歴史では珍しいことです。第二次世界大戦が終わった年が1945年です。ドイツが愛人エバとアドルフ・ヒットラーがピストル自殺心中して、連合軍に無条件降伏したのが、同年5月9日で、日本がポツダム宣言を受け入れて無条件降伏したのが同年8月15日でした。

 第二次世界大戦直後からの20世紀を超えて、21世紀の今日まで王位に君臨したのは、大変なことです。エリザベス二世女王は1926年4月21日生まれで、戴冠式は1952年でした。私はウエストミンスター寺院での戴冠式の光景は、当時まだTVもない時代で、白黒フィルムの映画館のニュースで観た場面を、はっきりと記憶しています。平成天皇がまだ皇太子の頃、昭和天皇名代として、ウエストミンスター寺院での戴冠式の長い列の出入り口に近い末席の方に立っておられました。終戦の年の1945年の7年後でしたから、まだ第二次大戦の傷跡が残っていましたし、戦勝国と敗戦国の格差もあった頃です。
 
 それだけに2012年のエリザベス二世女王戴冠60周年式典晩餐会に、平成天皇皇后両陛下がにほんから見えられ、宴会場入り口前での御対面の御挨拶をされてる光景は、わたしにとっては特別な感慨がありました。

 そして昭和天皇皇后陛下が戦後バッキンガム宮殿を訪問された晩餐会を思い出しました。晩餐会の女王の横のマウントバッテン公の席は空席でした。マウントンバッテン公は第二次大戦中の英国軍の総司令官でした。日本軍の山下奉文総司令官が一時シンガポールを陥落した時にマウントバッテン将軍は、一時シンガポールから退却したのでした。私の母方の叔父は、その当時山下総司令官の下で、通信隊小隊長をしていました。この晩餐会の席のスピーチでエリザベス二世女王は第二次世界大戦中、日英米が敵対した歴史的事実にも言及されました。  昭和天皇がハイドパークで植樹をされたのですが、翌日硫酸をかけられてしまいました。

 そして私は商社時代、フィンランドのヘルシンキ出張からオランダのスキポール空港に着陸したその直後、三機の日航機が着陸するのを空港で眺めていました。それは昭和天皇皇后両陛下がスキポール空港に到着した瞬間でした。そしてハーグのユリアナ女王の宮殿に向かわれました。しかし王宮の門の前で、お迎えの車の窓に生卵が投げつけられました。私が戦争たけなわのB29爆撃機の空襲が激化した名古屋から信州松本へ疎開下のは、今で言う小学2年生の頃でした。1週間疎開が後れていたら、東区東杉町の住宅街も爆撃されて、私もこの世にいいなくなっていたところです。隣り近所の幼馴染の子ども達は爆撃の犠牲になったと聞かされました。ルネクレマン監督の名作映画『禁じられた遊び』の映画を観たり、音楽聴くたびに当時の爆撃下の回想がよみけがえっきました。少年時代、あの空襲の日夜を記憶から消そう消そうと思っていた時期がありました。しかしそう簡単に消せるものではなかった。

 疎開先の信州松本でたまたま旭町中学(現在松本市立旭町中学合併桐分校の渡邊謙など出演のNHK映画が宇宙衛星中継で欧州でも最近TV放送された。)で同級になった瀬戸川道男君がいました。疎開者同士で特に親しくなったのですが、彼は松本市の鈴木鎮一音楽院(鈴木才能研究所)(海外ではDr Suzuki Method schoolとして有名)の門下生でバイオリンを習っていましたが、後に横浜に戻り、東京芸大コントラバス科を出て、NHK交響楽団入りし、その後オランダロッテルダムオーケストラに移籍していました。 ですかラ彼の家に時々泊まりに行きました。 昭和天皇皇后陛下がオランダ訪問されたときアムステルダムのホテルオークラでクアルテット室内楽御前演奏会を行いました。最後に昭和天皇陛下が近寄って来られ『日蘭親善のために今後なお一層の貢献をされることを祈ります』という御言葉をかけられました。瀬戸川君の祖父は実は疎開前は皇室の宮城写真家でした。

 英国の女王には長寿で在位機関が長い方が多いのですが、エリザベス一世女王は1533年生まれ、戴冠されたのが1558年、1603年70歳で逝去され在位期間は44年でした。

 ビクトリア女王は1819年5月24日生まれで、戴冠が1837年、在位期間が63年間、享年81歳で1901年1月22日に逝去されています。大英帝国は、エリザベス一世、ビクトリア女王の統治時代に植民地を増やし、大繁栄してきた歴史があります。エリザベス二世女王が2015年にビクトリア女王の在位期間を超えることはほぼ間違いないと思われます。私はエリザベス二世女王が戴冠25周年の式典の時、ロンドンのテームズ河畔のストランドホテルの窓から、当時売れっ子だった鹿児島出身のマーガレットサッチャー首相等著名人が御ひいきであった国際的ファッションデザイナー鳥丸軍雪氏等とともに、大花火大会を観て祝ったことを鮮明に覚えています。ルームのTV実況放送画面と、目前の夜空の実物花火の打ち上げを同時に見比べていました。


 2011年4月29日には、程なく英国王になる事が確実なダイアナ妃の嫡男で長男のウイリアム皇太子が、キャサリン妃と華燭の典を挙げましたが、英国のロイヤル外交はますます盛んになりつつあります。 なんやかやいっても、いま英国はあらゆる面でその上昇気流の気配が濃厚になってるのを英国住民として肌で感じます。英国がEUに加盟したものの通貨だけは、EUROに変えず、STG.ポンド(英国ポンド)を守りぬいていますのが米ドルやユーロ圏とは異なる動きをしています。

 2012年はエリザベス二世女王が戴冠60周年を迎え、3回目のロンドン・オリンピックヲ行い、英国はファーンボローという所でエヤショー(AIRSHOW)(航空機ショー)が開催されます。これには三菱重工が新型中距離ジェット機をもって参加することでしょう。日本国は技術工業国だと自負しながらも、航空機産業だけは日本は手が出ないものでした。かつて三菱重工がYS-11というプロペラ機を製造していましたが、国策で支援したが、結局は世界の航空機産業のレベルからしてトップには近ずけず、採算がとれずに断念し中止というより廃止となりました。

 しかし2012年には英国の航空機エヤショーに、日本初の中型民間ジェット航空機が登場することを期待されています。その時、巨人に対して小人のワンマンミニヘリコプターH4型機をもって、航空機ショーに参加します。このH4型ヘリの開発者は、柳沢エンジニヤリング・コーロレイションのアイデイヤマン柳沢会長です。私の従兄が内科医になる前に、学徒動員の軍隊から終戦後引き揚げてきて信州の旧制松本第一中等学校(現松本深志高校)からNHKの朝ドラでやっていた『おひさま』に登場する、信州の旧制松本高等学校(現信州大学)に戻ったとき、その前一時期代教をやってた頃の教え子が、この柳沢源内会長であるという縁です。その後従兄は医学部に進み、内科医になってから、ずーっと柳沢一家の係り医となってきました。この教え子は従兄に言わせると、『栴檀は双葉よりかんばし』で、とにかく教え子の中では、異色の才能のある生徒だったといったといってます。それがヘリばかりでなく、医療関係の分析機とか、様々な分野でそのアイデヤマンぶりが発揮されていて今でも意気軒昂です。このミニヘリはすでに世界あちこちで紹介されていますが、ラジコンで無人でも飛ばせます。この日本製のミニヘリコプターもTVニュースで世界中に配信されましたが、ただ残念ながら、日本孤島の土壌では余りに規制が多すぎて、独自の航空機産業がうまく育たないことで、肝心な部分で長期的ビジョンの国家支援政策が施されない欠点があります

 これは真の国家的長期ビジョンを持つ国際的政治家が、最近は不在となり、政治家でなく残念ながら 海外から故国日本を望見すると、どの政党も政治屋になってしまい『縮みゆくジパング』を孤島内で傍観してるに過ぎない。ますます孤島内こじんまりした政治屋が増えて行くばかりの傾向に、歯止めがかからない。
今後政治家たるものは、国際的政治家のキャラクターが輩出しないようでは、日本再興の兆しは薄い。日本は外交が下手だと海外国の新聞記者にまでいわれているのです。大統領を抱く国家には、個性とカリスマ性のある国際政治家が多い。いまや世界は国内政治家=国際政治家でなければならない時代である。ところが残念ながら日本には国内政治屋ばかりが増えても、国内外双方で通用する真の国際政治家が万年不在である。したがって首相たらいまわしの短期政治屋政権孤島国として、もう国際的にはあまり重要視されなくなりつつあるが現状です。そして、その自覚喪失マンネリ化症候群傾向が見られる。これは『NEOFEUDALISM(ネオ封建鎖国〕』状態である。


 英国は政治経済ロイヤル外交で2012年は、又世界の注目を浴びた事は間違いありません。 
 しかし日本人一般には、この世界の動きがまだ、まったく理解できていない気がします。かつて明治維新、そして第二次大戦後の新興国だった頃の日本の上昇志向が衰え、今や新々振興国の出現以来、日本孤島国はオタク思考になり、新々振興国に便乗する儲け話に便乗する小手先型思考法が増えています。かつて 山岳湖水ばかりでなく 『東洋のスイス』といわれたとこともあったが、かつて英国人神父登山家ウエストン卿が名ずけてくれた 『日本アルプス 』の光景がスイスの山々に似てるというだけで、自画自賛で自称していただけかも知れないが、そろそろ中身もスイス流にしてはどうかと思う。スイスは小国であり山岳国でありながら、いまだに世界の金融の中心であり、そして時計産業の伝統からの最先端技術先進国であり、国連外交の中核ポジションを担っている。ここに日本国にとってもヒントがあるのではないだろうか?小国であっても、スイスのように国連の主要支部機構を自国内に多く呼び込んでいたり、ダボス会議を行ったり、バチカンに衛兵を送り込んだリ、結構大国の狭間をうまく利用して、金融の中心にもなったりしている。


 日本は戦後右肩上がりの高度経済工業成長をしていた時代に、一つ大きな事を忘れていた。それはゴールドの国家的保有である。札束というものはオカネではありません。日本人はオカネのカネは金〔ゴールド〕という意味であった。徳川幕府時代末期は藩札が乱発されて歴史的には、藩札乱発が徳川幕府の崩壊自滅を招くことなった要因ともいえる。各藩の膨大に膨れ上がった借金を棒引きチャラにするために、明治維新政府の廃藩置県がうまく利用されたといわれる。藩札という藩の借用証書、すなわち藩の借金がチャラになるなるのを藩主や家老が内心では期待せぬはずがない。最近のPLASTIC MONEYといわれるCARDになったが、そのうちFINGER PRINT MONEY DNA MONEYなんていう新語時代も近いかも。

 日本は世界の貴金属の国際性知識が希薄であったがために、ゴールドの裏打ちのないペイパー(マネイ=紙幣=札束)がオカネと混同錯覚したままになってしまった。

 それで幕末明治初期のゴールド・シルバーの小判の不平等対価流出がおきてしまった。一時銀本位制を採用したが、世界第二次大戦・太平洋戦争終結後、戦後復興に邁進する所までは勤勉さをもってよかったのだが、札束〔紙幣〕をマネーと錯覚してしまった。一時ドル札という紙幣を溜め込めばいいという考え方になってしまった。何故あの貿易収支万年黒字国だった頃、今の中国政府のようにゴールドを保有する頭が働かなかったのか? 日本孤島国はゴールドの自由化がかなり後れてしまった。ゴールドといえば、日本は頭越しで香港や中国に行ってしまう。日本は相手にもされない。わずかに工業用と装身具アクセサリーくらいに
輸入する程度でしかない。


 債権というのも、実は借用証書。国債も国の借用証書で、これをPaper Moneyというが、ラテン語起源のMonetaというのは、Stamped Metal Coinに基ずいた価値基準のことでありもともと紙幣のことではなかったのです。 もっとラテン語で詳しく言うと Moneta Mintという。 Mintといえば香料のハッカの事ですが、ここでは一応関係ない事にしておこう。Mintの本来の意味はコイン鋳造、貨幣の造幣局の意味です。かつて大貿易時代インドの香辛料特に胡椒〔PEPPER〕などがゴールドよりも高価であった。胡椒一斤がゴールド一斤と等価で、天秤量りで交換された時代があった。つまり味覚嗅覚視覚〔化粧〕ハーブ不老長寿の霊験薬品に関するものが紀元前から珍重されたことからその原料や製法が錬金術であった時代がある。すなわち今で言うChemistry(化学)の源であるが、太古のエジプトのミイラ保存にも生かされて来た。

 かつてEFTAという英国中心の経済同盟があった時、スイスはそのメンバーに入っていたが、しかし欧州内の国でありながら、EUには加盟していない。通貨はユーロでなくいまだにスイス・フランを守っている。なぜかお分かりですか?その説明は長くなるから、ここでは割愛し、次の機会にまわすことにします。

 英国もEUに加盟はしてるが、通貨だけはユーロ機軸同盟には加盟せず、英国ポンドを守っている。そしてロンドンでは、世界のゴールド相場が日々午前午後建てられている。

 2年前ゴールドの保有高は中国がついに米国を抜いて世界第一位になったが、アラブの産油国もゴールドを溜め込んでいる。日本はかつてドル外貨の溜め込みを繰返したが、八方海洋孤島国の日本人にはペイパーマネーにこだわり過ぎて、おれおれ詐欺の餌食になる事件はますます増殖している。何かおかしい。変なところには猜疑心が強い習性があるのに、変なところはまったく抜けている。いまだに海外でも、詐欺強盗変な盗難事件に引っかかっているのは日本人が多い。これも国境陸続大陸型人種の外交的したたかさが欠けていて、八方四海海洋孤島国のモノトーンの外交が、世界ではもう通用しない。この世界の動きがまだ、まったく理解できていない。しかし肝心の日本人自身はそうは思っていない。 そのギャップが日本国の『いかがなものかの課題点』ではなく『ずばりストレートな最大の問題点』である。

 2012年のエリザベス二世女王戴冠60周年記念式典から見て、ダイアナ妃とチャールス皇太子の間に生まれた長男ウイリアム王子の王位継承は時間の問題になってきたと思う。仮にチャールス皇太子が王位に就いても短期間であろうし、場合によってはウイリアム王子が、すっ飛び戴冠になることもありうる。キング・ウイリアムが誕生すると、実母のダイアナ妃の復権が実現する。ダイアナ妃の人気はいまだに英国内外で強いのです。キング・ウイリアムがケート女王と訪日する日が、必ずある。

 そこで、今後の日本国の再興の道があるのです。立憲王国英連合王国(正式国名:INITED KINGDOM=UK)のロイヤル外交に連動して日本孤島国にも世界最長の歴史を持つ皇室があります。ロイヤル外交が最大の利点になりうる要素は充分にあります。そして自然環境保全や観光や国連機能のアジヤ支部核心はスイスに倣い。頭脳はイスラエルに倣い、ロイヤル外交を柱にすれば、日本再興の道は拓ける可能性はある。米国大統領は8年任期でかわるが、王位は継続するからロイヤル外交は続行する。

 ここに、今後の日本国の国際外交的活路のヒントがあると考えるものです。

 第二次世界大戦(太平洋戦争)の終戦後、八方海洋孤島国ジパングが忘れてきたことを振り返ると、日本孤島国の政治屋でなく国内政治家=国際的政治家レベルに早くなって欲しいと希うもので、日本孤島国の政治屋時代はもう終末期に来ている。米合衆国のように、或いは英国連合王国のように、道州制にするのも一案である。『変革しかない!』と考えるのは、海外に在住する私のみなのだろうか?
 
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